「歴史を学ぶ意味あります?」

本来ならフランスで資料探索三昧になる予定だった8月上旬だが、勤務先の雑用……じゃなくて学内行政(作文とか、別作文とか、作文依頼とか、作文チェックとか、さくぶ、さく、さ)のせいでフライトも宿もキャンセルし、仙台で過ごす夏。

そんな日々のはざまを縫って、名古屋青年会議所主催のフォーラム「歴史の観方は未来を創る:平和を維持する想い」(8月20日)に参加することになった。名古屋大空襲70周年ということで、竹田恒泰氏(お!)、徳川家康公(ん?)とともに、歴史を記憶することの重要性をめぐるパネルディスカッションに出席する&司会も担当することに。

 

www.nagoyajc.or.jp

あわてて名古屋大空襲の本を買って読む今日この頃。

それにしても、ポスターの写真も(自分で提供したので自業自得だが)スゴイが、付されたコピー「歴史を学ぶ意味あります?」もスゴイ。ぼくが考えたわけではないが、歴史学界にケンカを売っているようで、なかなか意義深い。うむ。

はじめてのイギリス。

今日は参議院選挙なので、霧雨のなかを自転車で投票してきたところである。えらいなあ、自分。

さて、7月初めに、はじめてイギリスを訪問してきた。出稼ぎ先である社会人研修会社(今月末で退任予定)の仕事の一環で、海外研修につきそったわけである。「brexit後のイギリス経済・社会・政治のあり方を展望する」というテーマで、ロンドン、ケンブリッジマンチェスターマンチェスター近郊の町プレストン、エジンバラを一週間でかけぬけ、20本を超えるインタビューをこなす、という強行日程。ロンドンでは元外相、ケンブリッジではスタートアッパー、エジンバラではスコットランド自治政府の高官など、さまざまな立場の人に会えたが、もっとも印象的だったのはプレストンである。

人口約14万人のプレストンはランカシャーに位置し、かつて繊維工業などで繁栄したものの、産業構造転換のなかでさびれはて、失業率や自殺率は高騰し、人口は減少する、という、典型的な衰退都市だった。これではまずい、ということで、プレストン市議会(市役所を兼ねる)はマンチェスターの町おこしシンクタンクに依頼し、同市に適合的な町おこし計画を策定し、実行に移した。これが、通称「プレストン・モデル」である。その後、地元にある大学(中央ランカシャー大学)などとも組み、モデルの充実を図っている。

その一端は

globalpea.com

に詳しいが、今回は当該シンクタンクの研究員、モデル拡充に参画している上記大学教員、市議会議長、町おこし担当市議会議員にインタビューでき、このモデルが多様な側面を持つ野心的なものであることを実感して帰ってきた。

ちなみに、印象的だったのは、市議会議長と担当市議会議員の若さ。議長はおそらく40代、議員に至っては大学卒業直後の20代なのではなかったろうか。

これは研修中の皆さんや通訳もしてくださった地元在住の日本人都市計画コンサルタントと一緒にプレストン市役所の玄関前で撮った記念写真だが、一番右のハンチング姿(取るとスキンヘッド)が市議会議長。これくらい若くなければ新しいことにチャレンジする体力と気力と勇気を持つことは難しいということなのだろう。

ひるがえって、日本は、日本の地方議会議員の平均年齢はどうか。

 

うーむ。

憲法記念日に想う。

あっというまに憲法記念日である。毎年、5月3日に「憲法記念日」を迎えるたびに、大略「この一年間もまた、どうやら『近代の超克』を見ずにすんだ」という安心感に襲われる。

さて、憲法記念日を迎えたということは、新年度も一か月たったということである。とにもかくにも疲れる4月だった。

 

つまり、

・新年度から、全学の役職である「副理事(学生支援担当)」とともに、所属部局である(うちは大学院が部局単位なので)経済学研究科の役職である「副研究科長(予算・評価・広報担当)」を兼務することになり、

・しかも、なんだかよくわからない理由で「複数の役職を兼務する場合は、役職手当は一つに限定される」らしく、副研究科長職は丁稚奉公、すなわちタダ働きで、

・ところが、この10年ほど全学のしごとにかまけて部局の情報をシャットダウンしていたため、まさしく「無知の知」(違うか)の状態から始まり、

・副研究科長というのは部局内の「どぶさらい」……は言いすぎだとすれば「トラブルシューター」の別称であることをはじめて知り、

・あれこれドタバタ無駄に走りまわっているうちに連休となってしまった。

という次第である。「どぶさらい」……じゃなくて「トラブルシューティング」をし、そのうえで当然の義務である授業をすると、自分の研究をする時間はせいぜい1.5時間/日しかない。すなわち、オフィスに着く7:00から職員諸氏が仕事を始める8:30までの90分だけである。8:30をすぎると、夕方まで、毎日が電話とメールの大運動会状態となるのだから、どうしようもない。せめてもの対策として、メールを書きながら電話できるようにスピーカーホン付きの電話機をオフィス用に買ったのが、唯一の一歩前進である。そのうえ、ラッキー(?)なことに、むこう4年間(2019-2022年度)の個人科研費(つまり基盤(c))が当たったので、研究をしなければならない。さあ、どうする?

 

さらにいえば、じつは本番はこれからで、

・副研究科長としてのぼくの業務内容に「評価担当」とあるが、

・2019年度は、2020年度に予定されている国立大学法人評価「暫定評価」のための提出書類を作成する年であり、

・だれがこの膨大な書類を作成するかというと、経済学研究科では「評価担当」つまりぼくらしいのだが、

・10年間、部局の情報を一切(自発的に)シャットダウンしてきたおかげで、ぼくは何もわからず、何も知らない。

のである。さあ、どうする?

 

ここは「副」理事と「副」研究科長のイエローカード2枚で自主的に退場しようか、とも考えたのだが、これはムリか、やっぱり、うむ。

帰国、迫る。

あっというまに2週間がすぎ、明日のフライトで帰国である。ちなみに明日は土曜日、土曜日ということは「黄色いベスト(ジレ・ジョーヌ)の日」、当地ニームの近くにあるアヴィニョンでは盛大なデモが予定されているらしく、ニーム駅には「明日、アヴィニョン行きの電車とバスはすべて運休する」という掲示が出ていた。頑張るなあ、ジレ・ジョーヌ……じゃなくてマクロン。そろそろ妥協しないと、すでに定着しつつある「金持ちの大統領」というレッテルが剥がせなくなると思うぞ、きみ。

今回は、昨夏に続き、ニーム市文書館で、同市三大団地(シュマン・バ・ダヴィニョン[CBA]、マス・ド・マング、都市化優先地域[ZUP])に関する資料を資料請求番号順に開けつづけた。存在しない(=インベントリーが作られたのちに廃棄された)ことが確認できたものも含め、210箱強を開け、11000枚弱の資料を撮影できた。すごいぞ、自分……ではなくて、これもすべて、全面的に協力してくれた職員のジョルダヌのおかげである。

彼女にはホントに助けられた。なにしろ請求番号が飛ぶので書庫中を捜しまわらなければならないし、書庫が小さいので2か所(先に一か所と書いたが、その後増えたらしい)に設置されている外部書庫(すごく遠い)にあるか否かまで調べなければならない。館長のヴァゼイユさんは「無料でダイエットできたじゃないか」などとのんきなことを言っていた(ちなみに彼女はじつにスリムである)が、文書館職員のしごとは体力勝負なのである。今回はチョコを1回差入れただけだが、次回(いつのことか……)は2回にしよう。

そのあいだを縫って、CBAにも行ってみた。やはり現地を踏んでみないとわからないものがある、という気がするからである。夕方に散策したCBAは、団地の改修もそれなりに進み、また周辺部には新しい集合住宅が建てられ、「そうでもないじゃん」という気がしたが、あとでヴァゼイユさんに話したら「マジか?」という顔をされた。実際にはいろいろあるのだろう。ちなみに、ニームの大本命にして天王山はZUPであるが、こちらにはまだ足を踏み入れる自信がない小心者の日本人である。

さて、帰国したら会議の嵐の日々が待っている、らしい。とりあえず半年はまったく勉強できそうもないな、うん。

 

 

命の洗濯、またはアーカイヴァル・ワークの悦楽

4月から雑用(学内行政とも呼ぶらしいが)がひとつ増え、とりわけ2019年度前半はなにも出来ないほどドタバタになることが確定したので、現実から逃避するべく二週間ほどニームで資料収集することにした。年度末だというのに、考えてみれば優雅なことである。

7:50にニーム市文書館に着くと、掃除をしている職員さんが気付いてくれて、開館前に中に入れてくれた。館長のヴァゼイユさんも来ていて、感動の(ウソ)再会。そのうち秘書のジョルダヌも来て、今後のリサーチの打合せ。今回から資料請求番号系列Wに入るのだが、Wの資料は、ここ市文書館に付属している書庫と、市の中心部にある総合図書館カレ・ダールの地下にあるアネックスに分かれて所蔵されているのだ。請求番号順に請求するとごちゃまぜになり、職員さんの負担が増えていやがられることが確実なので、まずは双方を区分し、付属書庫所蔵資料から閲覧することにする。

例によって一日あたり請求可能数を大幅に超える資料の閲覧を求める交渉(悪いんだけど……遠くから来ていて……日数も限られていて……)のすえ、「一日20箱程度」で妥結。今日は20箱で1000枚以上の写真を撮り、ヘロヘロしながらホテルに戻る。

初日としてはまずまずの出だしではないかね、ワトソン君。

東欧史研究会のアクチュアリティ

sites.google.com

 

 

コメント:東欧史研究会のアクチュアリティ

 

小田中 直樹(東欧史研究会2019年度大会、2019年4月20日立教大学

 

未定稿ゆえ引用不可

 

1. はじめに

「東欧史研究会」について語るという営みには、その対象を考えるだけでも、「東欧」、「東欧史」、「東欧史研究」、「東欧史研究会」そして、明示されてはいないが「日本における東欧史研究会」といった、いくつかのレイヤーが存在する。そして、それらレイヤー各々ごとに、さまざまな疑問が生じるが、ここでは「東欧」というレイヤーにトークの対象を限定することにしたい。

 そもそも東欧とはどこを指すのか。それは「欧州」という地域の東部を指す実体的な存在なのか。それとも、研究者の側が、なんらかの学術的あるいは政治的な意図を込めて設定した「想像された地域区分」なのか。

 実体的な存在としての「東部」とは、位置あるいは空間を示す言葉でもあり、方向あるいは位置関係を示す言葉でもある。

 例として、ぼくらにとって身近な日本について考えてみよう。日本は、しばしば「極東(ファー・イースト)」の一部に分類されている。

 一方で、たしかに日本は「東」すなわちアジアの東のはずれ(極)に位置する一定の空間をなしており、この点では一定の客観的な根拠を有している。ただし「極」という形容は主観的な評価に基づくものであり、どこまでが「近」(たとえば近東)であり、どこまでが「中」(中東)であり、そしてどこからが「極」(極東)を構成するかは、客観的な基準によって決定できる類のものではない。近東・中東・極東という三区分についていえば、これら三地域のあいだのボーダーは、かつてのイギリスの植民地主義的進出の都合に沿って引かれた意図的で政治的なものである。

 その一方で、たしかに日本は、欧州を中心におき、北を上にとる地図のなかでみれば、東の方向にある。欧州人が東を向けば、はるかかなたに日本が見える(はずだ)というわけである。しかしながら、アメリカからみれば、日本は西に位置する。位置関係からすれば日本はアメリカの「西」の方向に位置するのであり、極東ではなく(太平洋をはさんではいるが)近西と呼んでよい。「日本は極東の方向にあり、極東という位置関係にある」という言説が正しいか否かは、発話者の位置に左右されるのであり、端的に言って主観的な判断に左右される。

 日本の例からわかるのは、東西南北という方角が利用される場合、とりわけそれらが方向あるいは位置関係を表現するために利用される際には、それらを含む言説には利用者の主観がはいりこまざるをえない……というよりは、より積極的に「用語の利用者の、アクチュアルな主観の産物である」ということである。したがって、実体としての「東(あるいは西、南、北)部」は、じつは同時に「想像された地域区分」である。

 ぼくのトークでは、この点について、東欧を対象として考えることにする。そして、その延長線上に、21世紀という今日における東欧史研究会のアクチュアリティについて、その存否や性格・特徴について思いを巡らすことにしたい。

 

2. 位置・空間としての東欧

 まず、位置あるいは空間を表す言葉としての東欧について検討しよう。東欧の対義語は「西欧」であり、場合によっては「中欧」が両者のあいだに定置される。とりあえず中欧を除いて考えると、実体として存在するのは東西欧ということになる。それでは、両者のボーダーは、どこに、そしていかなる理由にもとづいて引かれてきた/引かれているのか。

 20世紀を経験したぼくらにとって、ただちに思いつくのは、東西冷戦だろう。その場合、西欧は市場経済諸国、東欧は旧・社会主義経済諸国ということになる。空間的にみても、この区分はおおむね妥当であるように思われる。例外はオーストリアであり、東西を区分する「鉄のカーテン」(ウィンストン・チャーチル)は同国の中央部を走れば最短距離となるところが、同国は社会主義経済システムを採用しなかったので、東西分割線たる鉄のカーテンは同国東国境に沿って迂回することになった。その結果、冷戦期においては、市場経済を採用する同国東部は、社会主義経済を採用するチェコスロバキア西部(現チェコ)やユーゴスラヴィア北西部(現スロヴェニア)よりも東に位置することになった。もっとも政治的にみると、オーストリアは1955年に永世中立を宣言し、中立路線を採用したので、鉄のカーテンが仮想的に同国の中央を走っていてもおかしくはないといってよいかもしれない。

 いずれにせよ、この場合、東欧史とは旧・社会主義経済諸国の歴史であり、東欧史研究とは旧社会主義経済諸国の歴史を研究する営みであり、東欧史研究会とは旧・社会主義経済諸国がカバーする空間の歴史を学術的に研究するひとびとのアソシエーションである、ということになる。実際、東欧史研究会が設立されたのは、1975年、一方では二度の石油危機に揺れる時代であり、その一方では冷戦が続くのみならず、ベトナム戦争をはじめとする熱戦が局地的に散発する時期であった。

 しかし、それから半世紀近くたち、とりわけ1989年に生じたベルリンの壁の崩壊を嚆矢とする欧州における旧・社会主義経済諸国の体制転換を経て、この「冷戦的/東西対立的思考枠組み」とでも呼ぶべきものは、今日そのアクチュアリティを失っている。東欧諸国は、いわば「ふつうの国」になったのである。

 社会主義経済を含む社会主義は、壮大な体系とカバレッジをもつ思想であった。そして、それを実現に移そうとした旧・社会主義諸国の試みは、一種の社会実験であったといってよい。したがって、この時代、東欧地域は、独自の対象として研究されるべき「独自性」をもっていた。これに対して、体制転換の混乱を経た今日の東欧地域については、権威主義国家、家産制国的でネポティズム的な経済、ポピュリズム政治、反移民主義をはじめとする排外主義などがみられ、それが同地域の独自性であると喧伝される光景が目に入る。しかし、ぼくにいわせれば、これら現象は西欧地域と五十歩百歩である。すなわち、東欧と西欧を区分するボーダーは、ほとんど消滅した。東欧は、純粋に欧州という空間の東側を占める部分空間にすぎなくなったといってよい。

 そうだとすると、東欧史研究の独自性もなくなったということになる。それは欧州史研究という上位ディシプリンの一部をなす(西欧史研究と同様な)下位ディシプリンにすぎない。したがって、東欧史研究の意義やアクチュアリティの存否や特徴は、西欧研究や欧州史研究の総体とかわらなくなった。たとえば、現代イギリス史研究に意義があれば現代チェコ史研究にも意義があるのであり、中世フランス史研究にアクチュアリティがないのであれば中世ハンガリー史研究にも意義はないのである。

 もちろん、個別具体的にいえば、東欧地域の歴史には、西欧地域の歴史にはない具体性が、さまざまな次元で存在するだろう。言語も違えば民族も違い、経済構造も違えば政治体制も違ったのだから、それは当然である。位置・空間としての「東欧」の歴史には「独自性」があると主張し、これら「独自性」について語るとすれば、それは、この次元においてなされるべきである。

 

3. 方向・位置関係としての東欧

 つぎに、「位置・空間」としてよりもさらに主観的な性格をもつ「方向・位置関係」としての東欧について検討しよう。

 そもそも「東欧」とは、どこからみて「東欧」なのか。それは、あきらかに欧州西部地域、すなわち西欧である。「東欧」というネーミングの背景には、当該地域を「東欧」と名付けたひとびとの地理的な位置が存在する。「東欧」とは、当該地域に居住しない「他者」によって名付けられ、与えられた地名である。これは、かつて日本が中国諸王朝によって「倭」と呼ばれていたことと同型をなしている。東欧は、東欧と呼ばれるかぎり、いわば「受動的な」存在なのである。

 そして、受動的な存在は、容易にハイアラーキー(あるいはピラミッド)の下位に位置付けられることになる。欧州についていえば、西欧は、みずからの位置からみた方向にもとづき、みずからとの位置関係を示す名前を当該地域に付与することにより、当該地域がみずからの下位に位置することを、意図的にか意図せずにか、表明した。そして、この言説は、たんにコンスタティヴなものではなく、パフォーマティヴなものとして機能してきた。すなわち「西欧は東欧の上にある」という根拠なき評価は、いつのまにか「西欧は東欧の上にあるべきだ」という一種の進軍ラッパに変容する。そして、ここから、議論の手続きを逆転させるかたちで「西欧が東欧の上にあることを証明する事実や史実」が探求され、場合によっては「発見」されることになる。

 ある時期までの東欧史研究は、じつは、このタスクを負わされていたのではなかったか。かく述べる際、ぼくの念頭にあるのは、東欧史研究の素人ゆえ日本におけるいくつかの事例を挙げるだけとなって恐縮だが、「比較史」の名のもとになされ、「エルベ以西と以東」、「フーフェとドヴォール」、あるいは「独立自営農民と農奴制」といった二項対立を析出した一連の所説である。この場合、前者が後者よりもたかく評価されていることと、その背景に産業革命をはじめとする(いわゆる)近代化が西欧でいちはやく始まったという史実認識があることは明らかだろう。

 さて、日本である。日本人にとっての「東欧」であり、日本における東欧史研究である。西欧人(なるものが存在すれば、だが)でもなく、西欧に義理を立てる義務もなく、幸いなことに西欧諸国の植民地となった経験をもたないぼくらにとって、「西欧から東の方向をみると、そこに存在し、東西という位置関係で表現できる空間としての東欧」という彼らの方向観や位置関係感覚を共有する必要は、どこにもないはずだ。ましていわんや、両者から生じる根拠なき「優れた西欧、劣った東欧」というハイアラーキーなどというものは。

 それでは、ぼくらは西欧人の東欧イメージから自由だったのか。また現時点では自由なのか。ぼくには、とてもそうは思えない。ぼくらは、一貫して西欧人の東欧イメージを含むまなざしを共有してきたし、今日においても、かなりの程度共有しているはずだ。

 もちろん、この事態にはそれなりの根拠がある。開国以降、日本人にとって、西欧諸国とりわけ英仏(および、ある程度まで独)はキャッチアップするべきモデルとしてあった。モデルに自己同化しようとするのは、人間の性である。日本人は、日本をいわば「アジアの西欧」とみなし、あるいはそうならんとしてきたのである。その場合、東欧は、場合によっては「自分よりも劣った存在」となり、場合によっては「すぐに追いつき追いこしうる存在」として位置づけられる。そして、これはまさに西欧人の東欧イメージの(現実から乖離している程度が甚だしいという意味で)劣化バージョンである。

 そもそも、日本の東欧史研究者は東欧の「周縁性」を語りたがるが、東欧は「なにの」周縁に位置するというのか。ユーラシア大陸について考えればすぐにわかるとおり、ユーラシアの周縁をいうなら、イギリスのほうがはるかに周縁である。東欧の「周縁性」をいった時点で、ぼくらは西欧人の西欧中心主義(ウェスタン・ユーロセントリズム)を無意識に受容し、そのようなメガネをかけたうえで東欧をみていることになる。

 このような無意味な物まねは、とりわけ西欧がもはや目指すべきモデルでなくなった今日においては、もうヤメにしないか。

 

4. 「普通の歴史研究」へ?

 日本人にとって、東欧は東に位置するのではなく、西に位置する。いや、地球が丸いことを考えれば、東に位置するといってもよいだろうし、北や南に位置するといってもよいだろう。そう考えると、東欧の「遅れ」や「劣等性」をアプリオリに前提とする議論は意味をなさないことがわかるはずだ。また、東西比較をはじめとする比較史的手法は強力でありしばしば有効であるが、それが根拠なき上下関係や優劣関係をもたらしがちであることについては、十分な注意と警戒心を払わなければならない。

 さらにいえば、グローバル化が加速している今日、一種の閉じた空間として東欧を考えることは、場合によっては無意味であり、場合によっては有害である。たしかに政治あるいは国家の次元では、もしかすると、東欧は一定程度閉じた空間をなしているかもしれない。しかし、経済あるいは社会の次元では、ヒト・モノ・情報は、毎日、急速な速度で大量に移動している。これら次元では、閉ざされた空間は別のかたちとしてあるか、あるいは、開放された空間しか存在しえない。

 かくなる時代において、東欧史研究者が出来ることはなにか。以下では、これらの問題について、二点だけ、ぼくの私見を書きつけておきたい。

 第一に、西欧人の伝統的な東欧イメージを共有するべきではない。

 表現に正確を期せば、西欧人の東欧イメージは、端的にいってオリエンタリズムエドワード・サイード)の延長線上にあると思われるが、開国後の日本人は、モデルたる西欧を過大に美化するオクシデンタリズム近藤和彦)を奉じ、オクシデンタリズムにもとづくオリエンタリズムという一種ねじれたまなざしを用いて世界を俯瞰してきた。東欧についていえば、それは「モデルたる西欧が下に位置付けているからには、なんだかよくわからないが、きっといつの日か自分たちよりも下に位置づくに違いない」地域であり、このイメージは、冷戦構造の確立とともに「ますます、なんだかよくわからない」ものとなり、冷戦終了後は、折からの好況と相まって「自分たちが追いこした西欧に敗れた劣等者」へと変化していった。

 しかし、グローバル化が進む現在においては、西も東もない。もちろん、東欧が西欧の優位に立ったという逆オリエンタリズムを採用する必要はないし、それもまた事実に反するだろう。いま必要なのは、「ものの見方」をひっくりかえす「コペルニクス的転回」ではなく、上下とか中心周縁関係とかいったハイアラーキーから自由なかたちで世界史という時空間を把握し、そのなかに東欧あるいは東欧史を位置づける「アインシュタイン的転回」とでも呼ぶべき営為である。これは、ひとつ間違えれば単なる相対主義史観に堕す危険があるが、オリエンタリズムをはじめとする主観的でハイアラーシャルな思想に染められてきた東欧・東欧史にとっては、リスクよりはメリットのほうが大きいように思われる。

 第二に、東欧史研究は「普通の歴史研究」となるべきである。

 ぼくはフランス史を研究しているが、それはフランスをモデルとみなしているからでもないし、フランスを見下しつつ進めているわけでもない。フランスはあくまでも「単なる研究の対象」であり、同国を選んだのはさまざまな偶然のなせる業である(というのは、じつは単純化しすぎで、現在のぼくにとってフランスは「先行者」であり、それゆえに研究に値すると考えている)。すなわち、ぼくにとって、フランス史を研究するのは「普通の歴史研究」の一環である。

 東欧史研究もまた、この意味における「普通の歴史研究」化するべきである。もちろん、東欧史を研究対象として選択するにあたっては、さまざまに個人的な動機が働くだろう。また、研究から得られた知見が、なんらかのかたちで世間の役に立つこともあるだろう。さらにいえば、ぼくらはすべて主観的な東欧イメージを持っているのであり、いかなる東欧史研究も主観的なものであることは免れえないだろう。そして、この「主観的な東欧イメージ」は、東欧という空間がもつ「独自性」として結晶するだろう。独自な存在だからこそ、東欧は研究に値するのである。

 ただし、この「独自性」は、西欧の独自性とかアフリカの独自性とかラテンアメリカの独自性とかと同じ次元における独自性たるべきである。いかなる地域も、他の地域と比較すれば、なんらかの独自性をもつ。したがって「普通の歴史研究」は対象地域が「独自性」をもつことを主張してよいのであり、「東欧という空間の歴史的独自性を普通の手続きで分析する」ことこそ、東欧史研究のタスクである。そして、もしもそこから得られた知見が日本人にとって有用なものだったら、それは望外の喜びであるというべきだろう。

 

 

薔薇マークキャンペーン、始動。

敬愛する松尾匡さんが始めた薔薇マークキャンペーン、どんどん話が進んでいるようで、今度の日曜日・3月3日には「全国一斉宣伝」を展開するんだそうだ。

rosemark.jp

仙台では、

・中央通りと東二番町の交差点

・14時か15時(詳細はのちほど)

に予定されている。

ぼくは、呼びかけ人のくせに出張が入っていて何もできないのだが、関心がある諸兄は、ぜひ。