伝統の創造。

モンペリエに来て、早くも第一週目が終わった。来週の今頃は、帰国のためCDGに向かっている最中ということになる。二週間というのは、やはり短い。

さいわい、日本を出るときは台風一過、しかも、なぜか一時間以上も前にCDGに到着するという空前の事態となり、ぶじに当日(月曜日)中にモンペリエに到着できた。翌日(火曜日)にエロー県文書館に行ったら、ちゃんと資料が準備されていた。さらに水曜日に閲覧室にカメラを忘れ、青ざめたが、翌日(木曜日)いったらちゃんと受付に届いていた。うーむ、ここはほんとにフランスなのだろうか。

今日(土曜日)は、近くの港町セト(Sete)で第4回「ティエル祭」が開催されるということで、出かけてきた。ティエル(tielle)というのは、以前も紹介したと思うが、タコのトマトソース煮をパイで包んだセト特産の料理である。レシピからわかるとおり、これはどう見ても南イタリアあたりのノリだが、実際、19世紀末にイタリア人移民が持ち込んだといわれている。

会場のアリスティド・ブリアン広場に行ったら、1枚2ユーロでチケットを買い、それでティエルや飲み物を購入するというシステムになっていた。なにを血迷ったか自分でもわからないのだが、10枚もチケットを買ってしまい、処分に困った。ティエルは結構腹にたまるので、何個も食べるものではないし、ワインを頼んだら、チケット1枚で250cc、プラコップになみなみ注がれたものがやってきた。あれやこれや飲み食いして6枚は使ったのだが、結局4枚余ってしまい、困っていたら、テイクアウトできるということで、4つ持ってモンペリエに戻ってきた。

それにしてもこの時期の南仏は、地中海性気候ということなのか、一日の温度差が激しい。朝は10度以下まで冷え込み、午後は25度まで上がる。ぼくは「ま、大したことはないだろう」と思って半袖の綿シャツしかもってこなかったのだが、あまりの寒さに耐えかね、到着翌日(火曜日)に速攻でジャンパーを買ったのであった。

それにしてもセトの「ティエル祭」、まだ第4回ということで、ささやかな規模ではあったが、かの「伝統の創造」を目の当たりにする一幕となった。

歴史屋の性(さが)。

月曜日から二週間の予定でモンペリエに出かけることになった。台風の吹き返しで東京は強風が予想されており、また新潟から沿海州という通常飛行ルートが台風を追いかけるかたちになるため、はたしてフライトが予定通りに出発し、予定通りにCDGに着くのか、一抹の不安が残る。

とにかく最悪でも予定通りに着いてくれないと、わしゃー困る。というのも、フライトのダイヤがちょっとかわり、CDG到着が17時すぎ。そのせいで、CDG発17:58のモンペリエ行き最終TGVに乗継ぐ時間が理論上は1時間もないという事態になっているのだ。とりあえずすべての荷物を機内持ち込みとし、CDGに着いたら全部持って機内からダッシュで飛び出し、動く歩道をひんしゅく買いながら走り、入国審査をじりじりと待ち、税関をスルーし、エレベータで降り、CDG-VALで国鉄駅に移動し……これで1時間弱かよ、おい。すでに気が遠くなっているワタクシである。

ちなみに、ダメだった場合は、近郊鉄道RERでパリにむかい、シャトレで乗継ぎ、リヨン駅に出て20時ごろ発のモンペリエ方面最終TGVに乗るというプランBも準備してあるのだが、これはやっぱメンドイよなあ、うん。

今回の主要課題は、エロー県文書館AD34でエロー・アビタHH(旧・エロー県低廉住家賃宅公社[OPHLMDH])の理事会の議事録と議事資料を読んでくることである。いま勉強している低廉家賃住宅「ラ・ペルゴラ」はOPHLMDHが建設し、維持管理してきたからだ。AD34が週4日しか開館しないので、8日で120箱。当該資料は大体200箱あり、今回で全部やっつけたいところだが、一日当たりの出庫数に上限があるので、これはムリ。したがって、残り80箱は春休みのお楽しみとせざるをえない。

ま、とにかく、これらは「だれも(=資料作成者とアーキヴィスト以外は)手を付けていない」まっさらな資料なので、どんなものか、なにが出てくるか、いまからワクワクしている。このワクワク感って、歴史屋の性(さが)だ。もちろん、そのあとには、このワクワク感をなるべく広く共有してもらうべく、さまざまなリクツを後付けする作業が残っている。ちなみに、ぼくは「日曜歴史家」((c)フィリップ・アリエス)ではないので、リクツの構築は、さきに「後付け」とは言ったが、きわめて重要であることにかわりはない。

とにもかくにも歴史屋は、資料みてナンボ。「なんで、あんな汚い紙をみてワクワクできるのか?」と言われるかもしれないが、それを説明できないところが歴史屋の歴史家たるゆえんなのだよ、ワトソン君。

誕生日を前にして。

「夏のない夏」をすごして、気付いたら9月。9月は誕生月なので、まもなく54歳、人生も2/3を終えることになる。だいぶ腰も重くなり、このままではマズイ……ということで、とりあえずサワサワと各種生活を同心円状に広げるなかで新しいことにアクセスしてゆきたいと、頭と心を新たにする「夏のない夏」の終わりである。

その一環というわけでもないのだが、10月末には地方自治体公設試験場……「宮城県農業試験場」みたいなやつ……のエンジニアの皆さんの研修に出張ることになった。教育委員会や企業が主催するの研修は経験があり、どうにか勝手はわかるのだが、このパタンは初めてである。教育委員会主催ならばオーディエンスは教員だから「同じ教師同士、話せばわかる」の世界だし、企業だったら「これからはグローバル化の時代だから、世界の歴史を知らんとマズイで、ホンマに」とかませることは学んできた。しかし今回のオーディエンスは、「話せばわかる」のか、「グローバル化」がどれほど身近なのか、まったく不明。

じつに面白そうだ!!

 

そんなこんなで、お盆が明けてようやくエンジンがかかったのか、

  -件の「産業革命後のフランス経済の概説」というお題も、一週間強でやっつけて依頼先=編者に納付した。「遅れてきた産業革命」というひとつのコンセプトだけで一気に押しとおす40枚。われながら、あいかわらず強引である。

  -上記・地方自治体公設試験場エンジニア研修用トークのドラフトも、今日いちにちで一気にやっつけてしまった。

 

ちなみに、研修用トークのドラフトは、一度作っておくと、いろいろと使いまわしがきいて宜しいので、こういうのは持ちネタを増やす良い機会である。ただし、今回に限っていえば、持ち時間は65分に対してドラフトが20枚弱と、ちょっと長すぎる。

時間がおすかなあ。

早口でかっとばすしかないかなあ。

削るのメンドイしなあ。

「締切」という概念。

数日前から、ほんとに久しぶりに原稿用紙の升目を埋める日々を過ごしている。

ESSHC(European Social Science History Conference、ヨーロッパ社会科学&歴史学会)にリジェクトされ、悔しいのでICUH(International Conference on Urbain History、国際都市史学会)にアブストでっち上げてアプライし、次の仕事のテーマにかかわる手持ち資料も一通り読んでしまった結果として、9月後半にエロー県文書館で資料調査するまでは先行研究の再確認ぐらいしかすることがなかったのだが、先月末、急きょ「産業革命後のフランス経済の概説を原稿用紙40枚で書け」という依頼が入ったのである。大学パンキョー向けフランス史テクストブックの一章をなすことになる。

ホントのことを言うと、教科書や概説書を書いたり編んだり寄稿したりするのは、ここ十数年さんざんやってきたので、基本的には「ノー・サンキュー」である。当然ながら、依頼があっても断りまくってきた。しかし今回は、依頼元=テクストブック編者に(もちろん心理的なものだが)借金があるため、断れなかったのである。

それにしても驚愕するのは、依頼が来た理由。

  -本来、共編者【誰かはヒミツ】が書くべき部分だったのが、締切になっても影も形もない。

  -進行具合を聞いても、ろくろく返事もない。

  -刊行予定を1年遅らせたが、それでもダメ。

  -他の章のドラフトは着々と集まっているのに、このままだとまずい。

云々という状況の所産だ、というのである。

 

いやはや、締切ぐらい守れよ、おい。大体において、共編者【誰かはヒミツ】っつったら「締切を守らせる」側だろーが、おい。

 

締切の設定は一種の契約であり、したがって締切を守るのは社会の常識である。しかし、どうも(他の分野は知らないが)人文社会科学業界では、仙台の交通マナーでは「黄色はゴー」であるのと同じく、「締切は破るもの」というローカルルールが一部に存在しているらしい。しかし、そんなルールに安住する業界に未来はないのである。

そんなわけで「夏が来なかった夏」をすごしているうちにお盆休みが明けたので、これを機会に執筆開始。渡仏前の完成を目標として、読んでは書き、買いては読む毎日。今のところドラフト執筆は順調に進んで、旧体制期、フランス革命産業革命、大不況、ベル・エポックまでやっつけ、おり返し点を過ぎた。あとは大恐慌と2度の世界大戦を経て、「黄金の30年(=高度経済成長)」と石油危機後の試行錯誤を書き、今後の展望を付せば終りである。

依頼元とは「今年中には書く」という約束をしたので、3か月以上の前倒し進行。とりあえず「合言葉は、前倒し進行」である。

  -10月からは本業(モンペリエ都市史)が忙しくなりそうだから今のうちに。

  -プライオリティが高い仕事がなかった。

など、いろいろと幸運が重なったこともあるが、締切を守るのは社会人のたしなみではないのか?

 

足羽俊夫(1931-2017)

パリから足羽さんの訃報が届いた。

足羽さんといっても、ぼくの周囲では、知っている人はほとんどいないだろう。鳥取県・日南町の出身。独学で絵を学び、1961年に渡仏してパリ美術学校(ボザール)に入学。石版画で頭角を現し、1964年卒業後、日本人として初めて同校の助手として採用される。しかし、職業芸術家の志やみがたく、3年で辞職して筆一本のパリ生活を選択し、「貧乏画家」として悪戦苦闘の日々が始まった。

ぼくら夫婦が足羽さんと知りあったのは、足羽さんの作品がどうにか認められはじめた1992年のことだ。成田からロワシーに向かうエール・フランスの機内で、偶然、隣りあったのである。足羽さんはいつもダンディで、そのときもブレザーに蝶ネクタイという姿。ぼくは、長いフライトの時間をつぶすべく、ずーっと『ル・モンド』を読んでいた(読むのに時間がかかるので、時間つぶしにはもってこいなのだ)。そんなわけで、おたがい「こいつイエローだけど、ぜったい日本人じゃねーよな」と思いつつ時間を過ごし、ロワシーに着く直前、足羽さんから「日本人ですか?」と……フランス語で……質問されたのだった。さらにロワシーでは、足羽さんが日本でもらって手荷物に入れて運んできた娘さん用の打掛が(高級そうにみえたのか)税関で引っかかり、蝶ネクタイが怪しまれたせいも絶対あると思うが、延々と取り調べが続くことになった。ぼくらが一足先に税関を出ると、そこにフランス人の女性がひとり、不安そうに立っていた。きっと足羽さんの奥様だろうと思って「ひとり、打掛がひっかかって税関でストップかけられてるひとがいますが……」と声をかけたのが、四半世紀に及ぶ交際の始まりとなった。

その後、パリに行くときは、19区にある足羽さんのお宅に伺うのが習慣となった。パリ市が芸術家用に建てた賃貸アパートで、吹抜けでガラス張りのアトリエがあり、そこに版画や油絵が乱雑に積み重なっていた。伺うたびにワインで大酒盛り大会となり、ヘロヘロの前後不省になりながら深夜にタクシーでホテルに戻るのが常だった。娘のユリコと息子のタミーノを、とてもかわいがっていた。

大西洋岸にあるヴァンデ県はユー島(ile d'Yeu)にある足羽さんの別荘に招待され、フランス人のバカンスを経験したのも、いまとなっては良い思い出だ。足羽夫人であるリュシーは(どこで知りあったのか)名家の出身で、ちゃんとバカンス用の別荘を持っていたのである。スズキを一匹丸焼きにしたり、あれは楽しかった。

1996年、故郷・日南町に町立美術館が建設された際、足羽さんは手元に置いていた作品の大部分を寄贈し、名誉館長となった。ぼくらもオープニングに招待され、日南町まで出かけた。

拙著のうち『フランス近代社会1814-1852』(木鐸社、1995)と『歴史学アポリア』(山川出版社、2002)では、表紙に版画と油絵を使わせてもらった。両者の現物は、いま、狭いながらも楽しい(?)わが家の壁を飾っている。ちなみに『歴史学ってなんだ?』(PHP研究所PHP新書、2004)では、章扉に石版画を使わせてもらった。

最近はパリでしごとをしていない(ロワシーに着いたら、地下の国鉄駅からTGVに乗ってモンペリエに直行する)こともあり、最後に足羽さんに会ったのはずいぶん前のことになる。あれはたしか2009年夏、かみさんと娘の3人でパリとレンヌをまわったときだった。足羽さんもリュシーも、かわらず元気で親切だったことを覚えている。

2015年、フランス芸術文化勲章シュヴァリエ)を受賞。2016年、鳥取県県民功績賞を受賞。今年の年賀状には「日南町美術館20周年を迎え、誇らしく、また、幸せです」と(フランス語で)あった。どことなく「やりきった」という満足感が伝わってきた。職業芸術家という仕事も、半世紀以上のフランス生活も。

Le temps s'en va. Le temps non, mais nous, nous en allons.

(時はすぎゆく。時はとどまり、われらはすぎゆく。[ロンサール])

 

 

「オーディエンス」はだれか。

札幌でボーダー・ヒストリーのカンファがあり、オーディエンスとして参加してきた。シュテファン・バーガー、クリス・ローレンツ、イム・ジヒョン、テッサ・モリス=スズキなど、そうそうたるゲストを海外から招き、また日本、韓国、アメリカ、香港、中国などの若手研究者がトークを担当するという、じつに充実した二日間だった。

そのなかでもっとも印象的だったのは、カンファの最後に、テッサさんが提示した「とても良い会議だったが、この会議のオーディエンスはだれなのか?」という問題だ。そう、たしかに、こんなカンファに参加し、議論を共有できるのは、英語をしゃべり、一定のアカデミックな知識をバックグラウンドとして持つ人々たる「国際的中間層(international middle class)」に限られるのかもしれない。もっとも、ぼくなんか、英語のスピードについてゆけず、どうみても「国際的中間層」落第であることを実感したが、これはまた別の話。

それでは、こんな場で提示され、共有された知識は「国際的中間層」の独占的所有物にとどまり、彼らがおりなす空間で消費・費消されてしまうのだろうか?

ぼくに言わせれば、そうではない。

「国際的中間層」なんて階級がほんとに存在するのか否か、ぼくには「?」だが、彼らが構成する社会空間から、その外部に広がる社会空間に向かって「知識」という財が広がる経路なんぞ、ちょっと考えただけでも山ほどあるじゃないか。

-小中高の教科書。

-テレビ番組の監修。

-最近目につくようになった「歴史マンガ」。

-企業の社員研修(最近の企業は、グローバルに戦うため、マネジメントとかテクノロジーだけじゃなくて、歴史や哲学といったリベラルアーツも教えているのだ)。

-いうまでもなく、概説書。

-そして、授業。

カンファのキーノートを担当なさった岩下明裕さんは「ボーター・ツーリズム」の提唱者兼実践者として知られているが、「民間の旅行業者と比較して、なにが違うのか?」という質問に対して「アカデミックであることだ」と答えていた。そう、各種の営みに対して、様々な経路を通してアカデミックな基盤を提供することこそ、ぼくらがなすべきことであり、しなければならないことであり、もっといえば、ぼくらにしかできないことである。「国際的中間層」の孤立を嘆いているヒマがあったら、広くつながるための経路を探すことだ。自分が持つ経路を活用することだ。そして、新しい経路を創造することだ。

なすべきことは、まだまだ山積してるじゃん(There still rest many things to do, right?)。

梅雨、続く。

空梅雨かと思われていた今年の仙台の梅雨、ここのところ梅雨らしくなり、それとともに、梅雨明けがいつになるか「?」状態と化してきた。そんななか、あいかわらず戦後モンペリエ都市史に関連する研究文献を読みふける毎日をすごしている。

昨年末に、このテーマに関する研究成果の第一弾としてプティ・バール団地(Petit Bard)に関する論文を刊行したので、次はラ・ペルゴラ団地(La Pergola)を分析し、両者を比較してみようと思っていた。両者は道を一本隔てたところにあり、

アルジェリアからの引揚者を受入れるため、1960年代に集合住宅として建設された。

・ドラッグや貧困や青少年軽犯罪など、いわゆる「都市問題」の舞台となった。

という共通点と、

・前者は民間分譲団地だが、後者は公営(県営)賃貸団地である。

・都市問題の程度は、前者が圧倒的に重い。

・前者は2000年代まで放置されていたのに、後者は1990年代はじめに大規模改修の対象となった。

という相違点を持つ。こんな異同を持つ両者ゆえ、きっと比較したら面白いだろうと考えたのである。

それじゃ、どこでどんなかたちで発表しようか……と考えていたときに目に留まったのが、次の「ヨーロッパ社会科学&歴史学会(European Social Science History Congress、ESSHC)」が2018年4月にベルファストで開催されるというニュース。ベルファストか!!、こんな機会じゃなきゃ訪問しないよなあ、と思い、アブストつくってアプライしたのだが、先日チェックしたら、どうも却下されてしまったらしい。

 

 

遥かなり、ベルファスト

 

 

でも、せっかくあーだこーだと考えてアブストつくったのに、このままではもったいない。どうにか使いまわす方法はないものか……と不届きなことを考えていたときに再度目に留まったのが、次の「国際都市史学会(International Congress of Urbain History)」が2018年8月にローマで開催されるというニュース。うーむ、なんとかリサイクルできないものか……と頭をひねるのだが、なかなか名案が思いうかばない日々。

 

 

やはり梅雨である。