憲法記念日に想う。

あっというまに憲法記念日である。毎年、5月3日に「憲法記念日」を迎えるたびに、大略「この一年間もまた、どうやら『近代の超克』を見ずにすんだ」という安心感に襲われる。

さて、憲法記念日を迎えたということは、新年度も一か月たったということである。とにもかくにも疲れる4月だった。

 

つまり、

・新年度から、全学の役職である「副理事(学生支援担当)」とともに、所属部局である(うちは大学院が部局単位なので)経済学研究科の役職である「副研究科長(予算・評価・広報担当)」を兼務することになり、

・しかも、なんだかよくわからない理由で「複数の役職を兼務する場合は、役職手当は一つに限定される」らしく、副研究科長職は丁稚奉公、すなわちタダ働きで、

・ところが、この10年ほど全学のしごとにかまけて部局の情報をシャットダウンしていたため、まさしく「無知の知」(違うか)の状態から始まり、

・副研究科長というのは部局内の「どぶさらい」……は言いすぎだとすれば「トラブルシューター」の別称であることをはじめて知り、

・あれこれドタバタ無駄に走りまわっているうちに連休となってしまった。

という次第である。「どぶさらい」……じゃなくて「トラブルシューティング」をし、そのうえで当然の義務である授業をすると、自分の研究をする時間はせいぜい1.5時間/日しかない。すなわち、オフィスに着く7:00から職員諸氏が仕事を始める8:30までの90分だけである。8:30をすぎると、夕方まで、毎日が電話とメールの大運動会状態となるのだから、どうしようもない。せめてもの対策として、メールを書きながら電話できるようにスピーカーホン付きの電話機をオフィス用に買ったのが、唯一の一歩前進である。そのうえ、ラッキー(?)なことに、むこう4年間(2019-2022年度)の個人科研費(つまり基盤(c))が当たったので、研究をしなければならない。さあ、どうする?

 

さらにいえば、じつは本番はこれからで、

・副研究科長としてのぼくの業務内容に「評価担当」とあるが、

・2019年度は、2020年度に予定されている国立大学法人評価「暫定評価」のための提出書類を作成する年であり、

・だれがこの膨大な書類を作成するかというと、経済学研究科では「評価担当」つまりぼくらしいのだが、

・10年間、部局の情報を一切(自発的に)シャットダウンしてきたおかげで、ぼくは何もわからず、何も知らない。

のである。さあ、どうする?

 

ここは「副」理事と「副」研究科長のイエローカード2枚で自主的に退場しようか、とも考えたのだが、これはムリか、やっぱり、うむ。

帰国、迫る。

あっというまに2週間がすぎ、明日のフライトで帰国である。ちなみに明日は土曜日、土曜日ということは「黄色いベスト(ジレ・ジョーヌ)の日」、当地ニームの近くにあるアヴィニョンでは盛大なデモが予定されているらしく、ニーム駅には「明日、アヴィニョン行きの電車とバスはすべて運休する」という掲示が出ていた。頑張るなあ、ジレ・ジョーヌ……じゃなくてマクロン。そろそろ妥協しないと、すでに定着しつつある「金持ちの大統領」というレッテルが剥がせなくなると思うぞ、きみ。

今回は、昨夏に続き、ニーム市文書館で、同市三大団地(シュマン・バ・ダヴィニョン[CBA]、マス・ド・マング、都市化優先地域[ZUP])に関する資料を資料請求番号順に開けつづけた。存在しない(=インベントリーが作られたのちに廃棄された)ことが確認できたものも含め、210箱強を開け、11000枚弱の資料を撮影できた。すごいぞ、自分……ではなくて、これもすべて、全面的に協力してくれた職員のジョルダヌのおかげである。

彼女にはホントに助けられた。なにしろ請求番号が飛ぶので書庫中を捜しまわらなければならないし、書庫が小さいので2か所(先に一か所と書いたが、その後増えたらしい)に設置されている外部書庫(すごく遠い)にあるか否かまで調べなければならない。館長のヴァゼイユさんは「無料でダイエットできたじゃないか」などとのんきなことを言っていた(ちなみに彼女はじつにスリムである)が、文書館職員のしごとは体力勝負なのである。今回はチョコを1回差入れただけだが、次回(いつのことか……)は2回にしよう。

そのあいだを縫って、CBAにも行ってみた。やはり現地を踏んでみないとわからないものがある、という気がするからである。夕方に散策したCBAは、団地の改修もそれなりに進み、また周辺部には新しい集合住宅が建てられ、「そうでもないじゃん」という気がしたが、あとでヴァゼイユさんに話したら「マジか?」という顔をされた。実際にはいろいろあるのだろう。ちなみに、ニームの大本命にして天王山はZUPであるが、こちらにはまだ足を踏み入れる自信がない小心者の日本人である。

さて、帰国したら会議の嵐の日々が待っている、らしい。とりあえず半年はまったく勉強できそうもないな、うん。

 

 

命の洗濯、またはアーカイヴァル・ワークの悦楽

4月から雑用(学内行政とも呼ぶらしいが)がひとつ増え、とりわけ2019年度前半はなにも出来ないほどドタバタになることが確定したので、現実から逃避するべく二週間ほどニームで資料収集することにした。年度末だというのに、考えてみれば優雅なことである。

7:50にニーム市文書館に着くと、掃除をしている職員さんが気付いてくれて、開館前に中に入れてくれた。館長のヴァゼイユさんも来ていて、感動の(ウソ)再会。そのうち秘書のジョルダヌも来て、今後のリサーチの打合せ。今回から資料請求番号系列Wに入るのだが、Wの資料は、ここ市文書館に付属している書庫と、市の中心部にある総合図書館カレ・ダールの地下にあるアネックスに分かれて所蔵されているのだ。請求番号順に請求するとごちゃまぜになり、職員さんの負担が増えていやがられることが確実なので、まずは双方を区分し、付属書庫所蔵資料から閲覧することにする。

例によって一日あたり請求可能数を大幅に超える資料の閲覧を求める交渉(悪いんだけど……遠くから来ていて……日数も限られていて……)のすえ、「一日20箱程度」で妥結。今日は20箱で1000枚以上の写真を撮り、ヘロヘロしながらホテルに戻る。

初日としてはまずまずの出だしではないかね、ワトソン君。

東欧史研究会のアクチュアリティ

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コメント:東欧史研究会のアクチュアリティ

 

小田中 直樹(東欧史研究会2019年度大会、2019年4月20日立教大学

 

未定稿ゆえ引用不可

 

1. はじめに

「東欧史研究会」について語るという営みには、その対象を考えるだけでも、「東欧」、「東欧史」、「東欧史研究」、「東欧史研究会」そして、明示されてはいないが「日本における東欧史研究会」といった、いくつかのレイヤーが存在する。そして、それらレイヤー各々ごとに、さまざまな疑問が生じるが、ここでは「東欧」というレイヤーにトークの対象を限定することにしたい。

 そもそも東欧とはどこを指すのか。それは「欧州」という地域の東部を指す実体的な存在なのか。それとも、研究者の側が、なんらかの学術的あるいは政治的な意図を込めて設定した「想像された地域区分」なのか。

 実体的な存在としての「東部」とは、位置あるいは空間を示す言葉でもあり、方向あるいは位置関係を示す言葉でもある。

 例として、ぼくらにとって身近な日本について考えてみよう。日本は、しばしば「極東(ファー・イースト)」の一部に分類されている。

 一方で、たしかに日本は「東」すなわちアジアの東のはずれ(極)に位置する一定の空間をなしており、この点では一定の客観的な根拠を有している。ただし「極」という形容は主観的な評価に基づくものであり、どこまでが「近」(たとえば近東)であり、どこまでが「中」(中東)であり、そしてどこからが「極」(極東)を構成するかは、客観的な基準によって決定できる類のものではない。近東・中東・極東という三区分についていえば、これら三地域のあいだのボーダーは、かつてのイギリスの植民地主義的進出の都合に沿って引かれた意図的で政治的なものである。

 その一方で、たしかに日本は、欧州を中心におき、北を上にとる地図のなかでみれば、東の方向にある。欧州人が東を向けば、はるかかなたに日本が見える(はずだ)というわけである。しかしながら、アメリカからみれば、日本は西に位置する。位置関係からすれば日本はアメリカの「西」の方向に位置するのであり、極東ではなく(太平洋をはさんではいるが)近西と呼んでよい。「日本は極東の方向にあり、極東という位置関係にある」という言説が正しいか否かは、発話者の位置に左右されるのであり、端的に言って主観的な判断に左右される。

 日本の例からわかるのは、東西南北という方角が利用される場合、とりわけそれらが方向あるいは位置関係を表現するために利用される際には、それらを含む言説には利用者の主観がはいりこまざるをえない……というよりは、より積極的に「用語の利用者の、アクチュアルな主観の産物である」ということである。したがって、実体としての「東(あるいは西、南、北)部」は、じつは同時に「想像された地域区分」である。

 ぼくのトークでは、この点について、東欧を対象として考えることにする。そして、その延長線上に、21世紀という今日における東欧史研究会のアクチュアリティについて、その存否や性格・特徴について思いを巡らすことにしたい。

 

2. 位置・空間としての東欧

 まず、位置あるいは空間を表す言葉としての東欧について検討しよう。東欧の対義語は「西欧」であり、場合によっては「中欧」が両者のあいだに定置される。とりあえず中欧を除いて考えると、実体として存在するのは東西欧ということになる。それでは、両者のボーダーは、どこに、そしていかなる理由にもとづいて引かれてきた/引かれているのか。

 20世紀を経験したぼくらにとって、ただちに思いつくのは、東西冷戦だろう。その場合、西欧は市場経済諸国、東欧は旧・社会主義経済諸国ということになる。空間的にみても、この区分はおおむね妥当であるように思われる。例外はオーストリアであり、東西を区分する「鉄のカーテン」(ウィンストン・チャーチル)は同国の中央部を走れば最短距離となるところが、同国は社会主義経済システムを採用しなかったので、東西分割線たる鉄のカーテンは同国東国境に沿って迂回することになった。その結果、冷戦期においては、市場経済を採用する同国東部は、社会主義経済を採用するチェコスロバキア西部(現チェコ)やユーゴスラヴィア北西部(現スロヴェニア)よりも東に位置することになった。もっとも政治的にみると、オーストリアは1955年に永世中立を宣言し、中立路線を採用したので、鉄のカーテンが仮想的に同国の中央を走っていてもおかしくはないといってよいかもしれない。

 いずれにせよ、この場合、東欧史とは旧・社会主義経済諸国の歴史であり、東欧史研究とは旧社会主義経済諸国の歴史を研究する営みであり、東欧史研究会とは旧・社会主義経済諸国がカバーする空間の歴史を学術的に研究するひとびとのアソシエーションである、ということになる。実際、東欧史研究会が設立されたのは、1975年、一方では二度の石油危機に揺れる時代であり、その一方では冷戦が続くのみならず、ベトナム戦争をはじめとする熱戦が局地的に散発する時期であった。

 しかし、それから半世紀近くたち、とりわけ1989年に生じたベルリンの壁の崩壊を嚆矢とする欧州における旧・社会主義経済諸国の体制転換を経て、この「冷戦的/東西対立的思考枠組み」とでも呼ぶべきものは、今日そのアクチュアリティを失っている。東欧諸国は、いわば「ふつうの国」になったのである。

 社会主義経済を含む社会主義は、壮大な体系とカバレッジをもつ思想であった。そして、それを実現に移そうとした旧・社会主義諸国の試みは、一種の社会実験であったといってよい。したがって、この時代、東欧地域は、独自の対象として研究されるべき「独自性」をもっていた。これに対して、体制転換の混乱を経た今日の東欧地域については、権威主義国家、家産制国的でネポティズム的な経済、ポピュリズム政治、反移民主義をはじめとする排外主義などがみられ、それが同地域の独自性であると喧伝される光景が目に入る。しかし、ぼくにいわせれば、これら現象は西欧地域と五十歩百歩である。すなわち、東欧と西欧を区分するボーダーは、ほとんど消滅した。東欧は、純粋に欧州という空間の東側を占める部分空間にすぎなくなったといってよい。

 そうだとすると、東欧史研究の独自性もなくなったということになる。それは欧州史研究という上位ディシプリンの一部をなす(西欧史研究と同様な)下位ディシプリンにすぎない。したがって、東欧史研究の意義やアクチュアリティの存否や特徴は、西欧研究や欧州史研究の総体とかわらなくなった。たとえば、現代イギリス史研究に意義があれば現代チェコ史研究にも意義があるのであり、中世フランス史研究にアクチュアリティがないのであれば中世ハンガリー史研究にも意義はないのである。

 もちろん、個別具体的にいえば、東欧地域の歴史には、西欧地域の歴史にはない具体性が、さまざまな次元で存在するだろう。言語も違えば民族も違い、経済構造も違えば政治体制も違ったのだから、それは当然である。位置・空間としての「東欧」の歴史には「独自性」があると主張し、これら「独自性」について語るとすれば、それは、この次元においてなされるべきである。

 

3. 方向・位置関係としての東欧

 つぎに、「位置・空間」としてよりもさらに主観的な性格をもつ「方向・位置関係」としての東欧について検討しよう。

 そもそも「東欧」とは、どこからみて「東欧」なのか。それは、あきらかに欧州西部地域、すなわち西欧である。「東欧」というネーミングの背景には、当該地域を「東欧」と名付けたひとびとの地理的な位置が存在する。「東欧」とは、当該地域に居住しない「他者」によって名付けられ、与えられた地名である。これは、かつて日本が中国諸王朝によって「倭」と呼ばれていたことと同型をなしている。東欧は、東欧と呼ばれるかぎり、いわば「受動的な」存在なのである。

 そして、受動的な存在は、容易にハイアラーキー(あるいはピラミッド)の下位に位置付けられることになる。欧州についていえば、西欧は、みずからの位置からみた方向にもとづき、みずからとの位置関係を示す名前を当該地域に付与することにより、当該地域がみずからの下位に位置することを、意図的にか意図せずにか、表明した。そして、この言説は、たんにコンスタティヴなものではなく、パフォーマティヴなものとして機能してきた。すなわち「西欧は東欧の上にある」という根拠なき評価は、いつのまにか「西欧は東欧の上にあるべきだ」という一種の進軍ラッパに変容する。そして、ここから、議論の手続きを逆転させるかたちで「西欧が東欧の上にあることを証明する事実や史実」が探求され、場合によっては「発見」されることになる。

 ある時期までの東欧史研究は、じつは、このタスクを負わされていたのではなかったか。かく述べる際、ぼくの念頭にあるのは、東欧史研究の素人ゆえ日本におけるいくつかの事例を挙げるだけとなって恐縮だが、「比較史」の名のもとになされ、「エルベ以西と以東」、「フーフェとドヴォール」、あるいは「独立自営農民と農奴制」といった二項対立を析出した一連の所説である。この場合、前者が後者よりもたかく評価されていることと、その背景に産業革命をはじめとする(いわゆる)近代化が西欧でいちはやく始まったという史実認識があることは明らかだろう。

 さて、日本である。日本人にとっての「東欧」であり、日本における東欧史研究である。西欧人(なるものが存在すれば、だが)でもなく、西欧に義理を立てる義務もなく、幸いなことに西欧諸国の植民地となった経験をもたないぼくらにとって、「西欧から東の方向をみると、そこに存在し、東西という位置関係で表現できる空間としての東欧」という彼らの方向観や位置関係感覚を共有する必要は、どこにもないはずだ。ましていわんや、両者から生じる根拠なき「優れた西欧、劣った東欧」というハイアラーキーなどというものは。

 それでは、ぼくらは西欧人の東欧イメージから自由だったのか。また現時点では自由なのか。ぼくには、とてもそうは思えない。ぼくらは、一貫して西欧人の東欧イメージを含むまなざしを共有してきたし、今日においても、かなりの程度共有しているはずだ。

 もちろん、この事態にはそれなりの根拠がある。開国以降、日本人にとって、西欧諸国とりわけ英仏(および、ある程度まで独)はキャッチアップするべきモデルとしてあった。モデルに自己同化しようとするのは、人間の性である。日本人は、日本をいわば「アジアの西欧」とみなし、あるいはそうならんとしてきたのである。その場合、東欧は、場合によっては「自分よりも劣った存在」となり、場合によっては「すぐに追いつき追いこしうる存在」として位置づけられる。そして、これはまさに西欧人の東欧イメージの(現実から乖離している程度が甚だしいという意味で)劣化バージョンである。

 そもそも、日本の東欧史研究者は東欧の「周縁性」を語りたがるが、東欧は「なにの」周縁に位置するというのか。ユーラシア大陸について考えればすぐにわかるとおり、ユーラシアの周縁をいうなら、イギリスのほうがはるかに周縁である。東欧の「周縁性」をいった時点で、ぼくらは西欧人の西欧中心主義(ウェスタン・ユーロセントリズム)を無意識に受容し、そのようなメガネをかけたうえで東欧をみていることになる。

 このような無意味な物まねは、とりわけ西欧がもはや目指すべきモデルでなくなった今日においては、もうヤメにしないか。

 

4. 「普通の歴史研究」へ?

 日本人にとって、東欧は東に位置するのではなく、西に位置する。いや、地球が丸いことを考えれば、東に位置するといってもよいだろうし、北や南に位置するといってもよいだろう。そう考えると、東欧の「遅れ」や「劣等性」をアプリオリに前提とする議論は意味をなさないことがわかるはずだ。また、東西比較をはじめとする比較史的手法は強力でありしばしば有効であるが、それが根拠なき上下関係や優劣関係をもたらしがちであることについては、十分な注意と警戒心を払わなければならない。

 さらにいえば、グローバル化が加速している今日、一種の閉じた空間として東欧を考えることは、場合によっては無意味であり、場合によっては有害である。たしかに政治あるいは国家の次元では、もしかすると、東欧は一定程度閉じた空間をなしているかもしれない。しかし、経済あるいは社会の次元では、ヒト・モノ・情報は、毎日、急速な速度で大量に移動している。これら次元では、閉ざされた空間は別のかたちとしてあるか、あるいは、開放された空間しか存在しえない。

 かくなる時代において、東欧史研究者が出来ることはなにか。以下では、これらの問題について、二点だけ、ぼくの私見を書きつけておきたい。

 第一に、西欧人の伝統的な東欧イメージを共有するべきではない。

 表現に正確を期せば、西欧人の東欧イメージは、端的にいってオリエンタリズムエドワード・サイード)の延長線上にあると思われるが、開国後の日本人は、モデルたる西欧を過大に美化するオクシデンタリズム近藤和彦)を奉じ、オクシデンタリズムにもとづくオリエンタリズムという一種ねじれたまなざしを用いて世界を俯瞰してきた。東欧についていえば、それは「モデルたる西欧が下に位置付けているからには、なんだかよくわからないが、きっといつの日か自分たちよりも下に位置づくに違いない」地域であり、このイメージは、冷戦構造の確立とともに「ますます、なんだかよくわからない」ものとなり、冷戦終了後は、折からの好況と相まって「自分たちが追いこした西欧に敗れた劣等者」へと変化していった。

 しかし、グローバル化が進む現在においては、西も東もない。もちろん、東欧が西欧の優位に立ったという逆オリエンタリズムを採用する必要はないし、それもまた事実に反するだろう。いま必要なのは、「ものの見方」をひっくりかえす「コペルニクス的転回」ではなく、上下とか中心周縁関係とかいったハイアラーキーから自由なかたちで世界史という時空間を把握し、そのなかに東欧あるいは東欧史を位置づける「アインシュタイン的転回」とでも呼ぶべき営為である。これは、ひとつ間違えれば単なる相対主義史観に堕す危険があるが、オリエンタリズムをはじめとする主観的でハイアラーシャルな思想に染められてきた東欧・東欧史にとっては、リスクよりはメリットのほうが大きいように思われる。

 第二に、東欧史研究は「普通の歴史研究」となるべきである。

 ぼくはフランス史を研究しているが、それはフランスをモデルとみなしているからでもないし、フランスを見下しつつ進めているわけでもない。フランスはあくまでも「単なる研究の対象」であり、同国を選んだのはさまざまな偶然のなせる業である(というのは、じつは単純化しすぎで、現在のぼくにとってフランスは「先行者」であり、それゆえに研究に値すると考えている)。すなわち、ぼくにとって、フランス史を研究するのは「普通の歴史研究」の一環である。

 東欧史研究もまた、この意味における「普通の歴史研究」化するべきである。もちろん、東欧史を研究対象として選択するにあたっては、さまざまに個人的な動機が働くだろう。また、研究から得られた知見が、なんらかのかたちで世間の役に立つこともあるだろう。さらにいえば、ぼくらはすべて主観的な東欧イメージを持っているのであり、いかなる東欧史研究も主観的なものであることは免れえないだろう。そして、この「主観的な東欧イメージ」は、東欧という空間がもつ「独自性」として結晶するだろう。独自な存在だからこそ、東欧は研究に値するのである。

 ただし、この「独自性」は、西欧の独自性とかアフリカの独自性とかラテンアメリカの独自性とかと同じ次元における独自性たるべきである。いかなる地域も、他の地域と比較すれば、なんらかの独自性をもつ。したがって「普通の歴史研究」は対象地域が「独自性」をもつことを主張してよいのであり、「東欧という空間の歴史的独自性を普通の手続きで分析する」ことこそ、東欧史研究のタスクである。そして、もしもそこから得られた知見が日本人にとって有用なものだったら、それは望外の喜びであるというべきだろう。

 

 

薔薇マークキャンペーン、始動。

敬愛する松尾匡さんが始めた薔薇マークキャンペーン、どんどん話が進んでいるようで、今度の日曜日・3月3日には「全国一斉宣伝」を展開するんだそうだ。

rosemark.jp

仙台では、

・中央通りと東二番町の交差点

・14時か15時(詳細はのちほど)

に予定されている。

ぼくは、呼びかけ人のくせに出張が入っていて何もできないのだが、関心がある諸兄は、ぜひ。

西研、スゴシ。

先月末のことになるが、すぐれた哲学者である西研さんのセミナーを聴講してきた。某企業の幹部候補生研修の一環にもぐりこんだのである。ぼくが西さんを「すぐれた哲学者」だと思うのは、既存の哲学者を研究する「哲学学」ではなく、人間が問題とするべき「問い」にたちむかうためのツールや理論を作るという「哲学」にみずからとりくんでいるからだ。

セミナーの前半は、西さんなりの哲学史講義。ここからして、一般の「哲学学者」が提示するのとはまったく異なる哲学の歴史が展開される。なんたって、出てくる哲学者が、ソクラテスプラトンフッサール、以上(キッパリ)。ヒュームもデカルトもカントもヘーゲルも出てこないという、語の真の意味で「ラディカル」な哲学史である。こんな選択の背景には、哲学の第一課題は「異質な他者同士が、異質性を損なうことなく対話するためのプラットフォームを作ること」であるという西さんの哲学観がある。要するに、ほかのことや、ほかのことを問題にした哲学者は、どうでもよいわけだ。全然ニュートラルじゃなくて、じつに潔し。ウーム、の一言である。

後半は、セミナー参加者に「異質な他者同士が、異質性を損なうことなく対話するためのプラットフォームを作ること」を実体験してもらうためのワークショップ。今回のお題は「幸福とはなにか」だったが、「なにか」の対象は、「誠実」とか「なつかしさ」とか、なんでもよいらしい。参加者の平均年齢は40台半ばといったところだったが、彼ら・彼女たちがワイワイガヤガヤと議論し、まとめ、プレゼンし、それに対して西さんがコメントしてゆく。そのコメントの内容が「異質な他者同士が、異質性を損なうことなく対話するためのプラットフォームを作ること」という西さんにとっての哲学の課題とぴったりフィットしていて、単なるファシリテーションにとどまらないところに、ぼくはひたすらに感服していたのであった。

ちなみに、休憩時間にはハイデガーの功罪や、臨床哲学の「その後」に関する評価など、貴重な話を聞くことができた。

9時から17時までの長丁場だったが、終わったあと、ものを考える「かまえ」がひとまわり大きくなった気がした。これがリベラアーツの力である。

パーソナライズド・グローバルヒストリーの可能性 ――国際関係史、グローバルヒストリー、そしてその先へ

www.hum.nagoya-u.ac.jp

 

 

パーソナライズド・グローバルヒストリーの可能性

――国際関係史、グローバルヒストリー、そしてその先へ

 

2019年2月15日、名古屋大学

小田中直樹odanaka@tohoku.ac.jp

 

 

 

1.グローバル化のなかの歴史学

2.グローバルヒストリーvs.ナショナルヒストリー

3.グローバルヒストリーvs.欧米中心史観型進歩史観

4.強みと弱み

5.「マクロ」から「ミクロ」へ、あるいは「マクロのミクロ化」へ

 

「16-19世紀東アジア国際関係史研究の可能性」シンポジウム

未定稿ゆえ引用不可

 


 

1.グローバル化のなかの歴史学

 本稿の課題は、「グローバルヒストリー」と称される歴史学の研究トレンドについて、その定義・内容・特徴、歴史学界における理論的・方法論的な位置、長所と短所を確定したうえで、その長所を生かしつつ短所を克服した「その先」の存在を展望することにある。このうち最後の点については仮設的な問題提起にとどまらざるをえない。また、本セミナーのメインテーマのキーワードである「国際関係史(history of international relations)」と適宜関連させながら考えてゆきたい。

 まずグローバルヒストリーの定義・内容・特徴から始めよう。水島司は、グローバルヒストリーの簡潔にして優れた入門書のなかで、グローバルヒストリーの特徴を5つに分けて整理している。[1] 第1に、扱う時間が長いことであり、その背景には歴史をマクロな視点からみようとする志向性がある。第2に、対象となる空間が広いことであり、これもまた先述した指向性のなせる業である。第3に、従来の歴史研究の中心をなしてきたヨーロッパ世界、さらには同世界が主導的な役割を果たした近現代史を相対化してとらえようとするスタンスを採ることである。これは、近年の(中国をはじめとする)非欧米世界のプレゼンスの上昇を反映する事態であるとされる。第4に、地域の比較ではなく、地域間の相互連関・相互影響・相互依存を重視することである。これは、地球の歴史(グローバルヒストリー)という時空間を「丸ごととらえる歴史学」(リュシアン・フェーヴル)を現実化するための方法論を探求する試行錯誤の、ひとつの帰結であるといってよい。[2] そして第5は、種々様々なテーマが取り扱われることである。その例としては「疾病、環境、人口、生活水準」が挙げられているが、ただし、これらは、アナール学派(フランス社会史学派)の成果を想起するまでもなく、第二次世界大戦以降の各国における歴史学が積極的に取り組んできたものであり、とりたてて新しいテーマであるとは思えない。

 水島が提示した5つの特徴をまとめると、グローバルヒストリーとは「マクロな視点から時空間に接近し、また欧米中心主義を相対化しようとする志向性を持つアプローチ」であると定義できるように思われる。

 それにしても、なぜ今日グローバルヒストリーが人口に膾炙し、また、一種のブームとなっているのだろうか。この問いを出発点として、グローバルヒストリーの「今日」を明らかにしてみよう。

 すぐに思いつくのは、グローバルヒストリーの興隆は、リアルな世界におけるグローバル化という現象を反映しているのではないか、ということである。

 それでは、グローバル化とはなにか。

 この点について興味深く、また重要な指摘をしているのはリン・ハントである。[3] 彼女によれば、「グローバル化」という語をタイトルに掲げる書籍は、1990年代初めに増加しはじめ、2000年代初めまでのあいだに急上昇した。その背後にあったリアルな事態を思い出してみると、わたしたちの念頭には、まず「インターネットの発展と普及」をはじめとする経済的な変化が浮かんでくる。しかし、ハントによれば、それは間違っている。なにしろ、インターネットが民間商用解禁されたのはもっとも早いアメリカ合衆国が1990年であり、2000年になっても、インターネットにアクセスできたのは世界人口の5%にすぎない。インターネットが真に世界をつなぎ、ひとびとに「グローバル化」を実感させるようになるのは、2010年代に入ってからのことにすぎない。

 それでは「グローバル化」という語を人口に膾炙させた事態は何か、というと、それはベルリンの壁の崩壊であり、冷戦の終了である。ここにおいて「社会主義共産主義」というイデオロギーが姿を消し、その隙間を「グローバル化」というイデオロギーが埋めることになった、というのが、ハントの診断である。

 ハントの診断から学ぶべきは、なによりもまず「グローバル化」はひとつのイデオロギーであるということである。すなわち、それは、わたしたちの眼前に生じているリアルな諸事態のなかから「取捨選択」をおこない、結果として残されたものに対して「命名」という操作をすることによって生じた、人為的な存在である。

 そうだとすれば、リアルな現象であるはずが一種のイデオロギーの側面を持つ「グローバル化」を反映したグローバルヒストリーは、二重の意味でイデオロギーを負荷(チャージ)された存在としての研究トレンドである、ということになる。ここで「二重の意味で」という語が含意しているのは、様々な現象が存在するなかで時代を代表する存在として「意図的に」選択・加工・提示されたリアルな現象に対して、さらに「意図的に」対応した知的営為の産物である、ということである。

 要言すれば、グローバルヒストリーは、強力なイデオロギーを内包した研究トレンドである。大体において、「インターナショナルヒストリー」ではダメなのはなんとなくわかる気もするが、それでは「ワールドヒストリー」ではダメなのか。最近は「ビッグヒストリー」なる語も目に付くようになったが、それとの関係はいかなるものか、などなど、様々な疑問がわいてくる。

 いうまでもなく、歴史学においては、あるいは他の学問領域においてもそうだと思うが、すべて研究トレンドはイデオロギーである。歴史学についていえば、そのことを明瞭に断言したマニフェストは、マルク・ブロックとともにアナール学派創始者に数えられるリュシアン・フェーヴルの論文集『歴史のための闘い』であろう。[4] そのなかで、彼は「問題史」という研究方法を提示し、歴史研究はすべて歴史学者の問題意識から始まると喝破した。個人(あるいは個人からなる集団)の「問題意識」から始まるアーギュメント、それはイデオロギー以外のなにものでありえようか。かく断言するフェーヴルの念頭にあった、いわば仮想敵は、いわゆる「実証史学」であるが、グローバルヒストリーの場合は、歴史学者の問題意識の対象たる「グローバル化」がすでにイデオロギー性を帯びており、したがってそれ自体がつよくイデオロギー的なものであることを忘れてはならない。

 

2.グローバルヒストリーvs.ナショナルヒストリー

 グローバルヒストリーがイデオロギーであり、人為的に構築されたものであるとしたら、当然ながらそこには構築者の意図が込められている。そして、構築者の意図のなかには、かならず特定の「何か」を否定・批判しようとする意向が含まれている。ここでは、この「何か」を「敵」……というのは言葉が強すぎるので「仮想敵」と呼ぶことにしよう。「仮想敵」は、わたしたちにとって、そしてグローバルヒストリーを報じる人びとにとっても、きわめて重要である。わたしたちにとって重要なのは、仮想敵は何か、いかなる性格を持つ存在か、といった点がわかれば、仮想敵と対比することによって、グローバルヒストリーの特徴にさらに接近し、歴史学界における理論的・方法論的な位置を確定できるからである。グローバルヒストリアンにとって重要なのは、仮想敵は、グローバルヒストリーを構築する際、採用するべき構成要素を取捨選択する基準(メルクマール)として機能するからである。

 クローバルヒストリーにとっての仮想敵は、第1にナショナルヒストリーであり、第2に欧米中心型進歩史観である。

 第1のナショナルヒストリーの問題から考えてみよう。

 先述したとおり、グローバルヒストリーの特徴は、ひとつには「マクロな視点から時空間に接近」することにある。

 このうち時間の次元に関していえば、グローバルヒストリーを関する研究は、それ以前の研究と比較して、かならず必ずしも長期の期間を対象として設定しているわけではない。換言すれば、とりたてて新味はない。たとえば、今やグローバルヒストリーの古典として名高いケネス・ポメランツ『大分岐』は、イギリスで産業革命が始まり、一定程度進展するまでは、中国(とりわけ長江下流デルタ地帯)のほうが経済的に進んでいたと主張して大きな議論を惹起したが、対象とする時期は基本的に近世(16-19世紀)である。[5] そして、3世紀程度の期間を対象とする歴史研究は、「グローバルヒストリー」を名乗らなくても、ざらに存在するはずである。もちろん『大分岐』は環境史や生態史といった長期のタイムスパンに適合的な研究トレンドを意識して書かれているが、これらについても、たとえばフランスでは、とりわけ第二次世界大戦以降から重厚な研究蓄積がある。そのひとつの頂点は、エマニュエル・ルロワラデュリ「動かざる歴史」であろう。[6] 同論文において、彼は、環境史・人口史の観点から、1300/1320年から1720/1730年にかけての約400年間、ヨーロッパの経済=人口システムは「不変」であったと結論づけた。

 これに対して空間の次元はどうか。こちらについては、さすがに「グローバル」を冠するだけあり、グローバルヒストリーが対象とする地域の広さは、それまでの研究成果に比してかなり大きなものとなっている。ポメランツ『大分岐』についていえば、同署は比較史の形態をとっているが、比較の主要対象はイギリスと中国であり、その構えの大きさには特筆するべきものがある。あるいはまた、地域間の相互連関史という、比較史と比しても空間的カバレッジの大きさが必要な研究スタンスについていうと、地域間の相互連関を考える際に利用しうるアプローチとしては、近年「海域史」が重視されるようになってきた。日本でも、とりわけアジアを対象としてすぐれた研究成果が出現しているが、それらの空間的カバレッジは格段に大きなものとなっている。[7] 

 それでは、少なくとも空間の次元において「マクロな視点から……接近する」というと特徴を採用するという選択をおこなった際に、グローバルヒストリアンの念頭にあった仮想敵は何か。「マクロ」の対義語は「ミクロ」であり、ミクロなアプローチの重要性を強調して採用する研究スタンスとしては「ミクロストーリア」があるが、ミクロストーリアはグローバルヒストリーの仮想敵ではない。グローバルヒストリーが「マクロ」を自称するとき、「マクロでない」存在として念頭にあるのは「国(state/country/nation)」を分析単位とする研究スタンス、すなわち「一国史観」である。

 たしかに一国史観とは「不思議な」研究トレンドである。たとえば「フランス史」というとき、「フランス」とはいかなる空間を指しているのか。ある程度のタイムスパンを採ると「フランス」は広がったり狭まったりするが、このように可変的な空間を対象としてよいのか。社会次元でみたフランスと政治次元でみたフランス、あるいは経済次元でみたフランスは、はたして十全に一致するのか。こういった、さまざまな疑問が脳裏に浮かんでくる。これら疑問は「フランス」という語の曖昧さの産物であるが、この曖昧さは他の国にも妥当する。そうである以上、一国史観は十分に批判に値する。

 ただし、グローバルヒストリーの主要な仮想敵は一国史観ではない。それは「ナショナルヒストリー(国民史)」である。ナショナルヒストリーは、単に、国民(ネーション)を単位とする歴史を意味するものではない。史学史、とりわけ歴史学が科学として成立・確立して以降の歴史を反映して、この語にはさまざまな負荷が課せられている。[8]

 歴史学が科学として成立したのは19世紀のプロイセン、さらには統一後のドイツにおいてであったが、プロイセンやドイツが、先進国イギリスにキャッチアップすることが必要かつ可能な「相対的後進国」(遅塚忠躬)であったことを反映して、科学としての歴史学には、キャッチアップを担う主体たる国民を想像/創造するという課題が課せられた。国民を想像/創造するためには、誕生から始まる国民の人生(ライフヒストリー)を創出し、提示し、受容させなければならない。それも、なんらかの意味で科学的な方法に基づいて。このような課題を課され、このような意図のもとに紡ぎだされた歴史叙述こそ、ナショナルヒストリーである。その意味で、ナショナルヒストリーは、科学的であり、ナショナルであるという、2つの特徴を持つ研究トレンドである。

 ナショナルヒストリーが19世紀に、プロイセン・ドイツという相対的後進国で成立したという事実は、その特徴を理解するうえで、きわめて重要である。すなわち、当該研究トレンドに課された国民を想像・創造するという課題の目的はキャッチアップにあるが、そのために最適な手段は国民の動員である。いや、むしろ、動員する客体を得るためにこそ、国民を想像/創造しなければならなかったというべきであろう。ナショナルヒストリーは国民の動員を目的として構築されるストーリーであり、その意味で単に「ナショナル」ではなく、むしろ「ナショナリスティック」な性格を帯びている。ナショナルヒストリーはナショナリズムの手段なのである。そして、19世紀のナショナリズムは、ナポレオン戦争にみられるような他国の侵略からの防衛、あるいはドイツやイタリアなどの国家統一運動といった防衛的あるいは中立的な性格を帯びたものから、他国の侵略や植民地の獲得を求める意欲を駆動する攻撃的なものに変容してゆく。それに伴い、ナショナルヒストリーも他国侵略や植民地獲得を正当化する根拠として用いられることになる。

 もっとも、ナショナルヒストリーは科学的であることを自称する。19世紀とりわけ世紀後半のドイツ諸邦は自然科学をはじめとする諸科学の中心地であり、歴史学もまたそれら科学の手法を取り入れながら自己を確立していった。そして、ある学問領域の科学性を測定するメルクマールのひとつは、その価値中立性である。この時期の歴史学の科学化に最大の貢献をした人物であるレオポルド・フォン・ランケは、歴史学の課題は「それは、実際には、いかにあったか」を明らかにすることにある、と述べている。のちに、このフレーズは実証史学のマニフェストとみなされ(先述したフェーヴルなど、のちの歴史学者たちの批判対象とな)ることになるが、ここにナショナリズムの入り込む余地などは存在するだろうか。これは、ナショナリズム、それも攻撃的なナショナリズムという、まさに代表的なイデオロギーをはらむ研究トレンドが、はたして同時に、価値中立性をスローガンとする科学的たりうるか、という問題である。常識的に考えれば、ナショナリズムと科学性は相対立する存在であるように思える。

 じつは、ナショナリズムと科学性の同時存在という問題は、理論的または実践的に解決可能である。

 このうち理論的な解法としては、「科学性」という概念もまた人工的・意図的に構築されたものであり、それゆえ一種のイデオロギーである/一種のイデオロギーにすぎないと主張し、二つのイデオロギーが並存する研究トレンドとしてナショナルヒストリーを捉える、というものがある。実際、科学の代名詞である価値中立性あるいは実証性もまた、メタ次元で考えれば一種のイデオロギーであるといわなければならない。

 ただし、より重要なのは実践的な解法である。先述したとおり、ナショナルヒストリー、歴史学、さらにはいかなる科学も、それを実践するにあたっては、当事者である科学者の選択が介在する。テーマの選定というスタート地点から、成果の公表や利用というゴールに至るまで、科学者はいくつもの選択機会に直面し、特定の選択肢を選び取る。ナショナルヒストリーについていえば、これら選択のプロセスにおいて、ナショナリズムは、科学性と両立するかたちで機能しうるし、実際に機能しているはずである。

 さらにいえば、科学はすべて集団的な営みである。ナショナルヒストリーに即していえば、それは歴史学者というコミュニティがなす営為である。そして集団は、様々なかたちで制度化する。これまたナショナルヒストリーに即していえば、時がたつにつれ、大学をはじめとする研究教育機関、学会、あるいは学術雑誌といった制度が生まれ、歴史学者コミュニティを下支えする。そして、このコミュニティのなかで、ナショナリズムを志向する科学的選択プロセスがメンバーのコンセンサスを得てゆくことになる。

 こうして、攻撃的ナショナリズムを支えるストーリーとしてのナショナルヒストリーが意図してかせずにか、また意識してかせずにか、歴史学界に広まってゆく。これこそがグローバルヒストリーの主要な仮想敵である。

 

3.グローバルヒストリーvs.欧米中心史観型進歩史観

 グローバルヒストリーの仮想敵として第2に挙げるべきは欧米中心史観である。

 歴史学自体の起源をどこに求めるかについては、様々な所説がありうる。歴史学の父は、古代ギリシアヘロドトス(BC5c、『歴史』)というひともいれば、中国の司馬遷(BC2c、『史記』)というひともいるはずだ。「歴史」をいかに定義するかによって、その起源はいかようにも変化してゆく。問題は今日の歴史学、すなわち科学としての歴史学である。先述したとおり、科学としての歴史学は19世紀のプロイセン・統一ドイツで成立した。そのため、科学としての歴史学は、ヨーロッパ(のちに欧米)の「知」のありかたの影響をおおきく受けることになった。そして、時代を反映して、この「知」は、欧米以外の地域における植民地獲得すなわち帝国主義的な進出を「文明化の使命」あるいは「白人の責務」と称して「是」とする攻撃的ナショナリズムの色彩を帯びていた。

 かくなる知が歴史学に反映されると、空間的にみれば、欧米が世界の中心をなし、アジアなどそれ以外の地域が周辺に位置する欧米中心史観が生じる。この史観が時間軸に投射されれば(すなわち時間的にみれば)そこに出現するのは「進んだ欧米、遅れて欧米を追う(あるいは追えない)その他地域」という進歩史観である。そして、両者が結合したところに生じるのが、欧米中心型の進歩史観である。この史観において欧米が、様々なメルクマールにおいて上位に置かれることは、いうまでもあるまい。欧米中心型進歩史観は、要言すれば「中心に位置する進んだ欧米が、辺境に位置するその他地域を指導して進歩させ、あるいは搾取する」というものであり、攻撃型ナショナリズムの時代の知的雰囲気にフィットし、あるいはそれを強化する方向で機能した。もちろんそれがひとつのイデオロギーであることは、言うまでもないだろう。

 世界史という時空間を「欧米=中心=先進」と「その他地域=周辺=後進」に二分し、前者を後者の上位に置く歴史観はリアルな世界において欧米が世界の中心にあった時代には、圧倒的なリアリティと一定の言説的正当性を持った。しかし、とりわけ20世紀後半、第二次世界大戦が終了し、世界各地の植民地が独立し、欧米にキャッチアップしはじめ、場合によっては欧米を凌駕するに至ると、欧米中心型進歩史観は説得性をおおきく減じることになった。

 そうはいっても、いったん身についた「ものの見方」から脱却することは、容易ではない。とりわけ優位にあった欧米地域においては、みずからの優位性をみずから否定する・批判することは、困難な営みとなる。

 また日本をみると、非欧米地域に属しつつも、19世紀後半からキャッチアップを開始し、そのために攻撃型ナショナリズムを受容し、そのあげく欧米中心の連合国に敗戦したという経緯をたどったため、きわめてねじれたかたちで欧米中心型進歩史観が受容された。[9] そのため、同史観の影響力は戦後も強固であった。1970年代に入ると、ポストモダニズムの影響のもと、欧米中心型進歩史観をのりこえる必要性が叫ばれ、歴史学の分野でも様々な試みが始まったが、それらが実践すなわち歴史叙述や歴史教育の次元で欧米中心型進歩史観にとってかわったということはできない。そのことは、各種学校の歴史教科書、一般書、あるいは「講座」と呼ばれる世界通史の構成をみれば、ただちに明らかである。

 最後に、ナショナルヒストリーと欧米中心型進歩史観は、相互に独立して存在するものではない。欧米地域において進歩を実現した主体は、イギリスについては留保を付したうえで、国民の動員に成功した国家、すなわち国民国家である。そうだとすると、両者を接合すると「国民を想像/創造するための手段としてナショナルヒストリーが創出されて機能し、国民の動員に成功した国家たる国民国家が進歩を実現し、その上に立って非欧米地域に対する優位を確定する」という物語を紡ぐ歴史叙述、さらには研究トレンドになる。この、欧米中心主義・進歩主義ナショナリズムを特徴とする「欧米中心型進歩史観的ナショナルヒストリー」とでも呼ぶべき研究トレンドこそ、グローバルヒストリーの仮想敵である。したがって、グローバルヒストリーは、脱欧米中心主義、非進歩主義、反ナショナリズムを特徴とするはずである。

 そうだとすると、グローバルヒストリーは研究トレンドとしての「国際関係史」と相性が悪い、といわざるをえない。それは、国際関係史が欧米中心主義的であり、またナショナルな性格を持つからである。

 国際関係史は、しばしば「ヴェストファリア史観」を採用していると評価される。すなわち、国際関係史が想定する「国際関係」の原型・起点・典型は、ヴェストファリア条約(1648年)によって規定された国家間システム、すなわち主権(対内的には至上権、対外的には独立)を持った国家同士が軍事的(戦争)あるいは非軍事的(外交)に交渉する結果として生じる国家間関係に求められる。これが、いわゆる「主権国家体制」であり、主権国家体制は欧米で典型的に発達したと評価される。さらに、イギリス産業革命を経て欧米の優位が確定すると、これら地域の諸国は、他の地域に対して国際関係としての主権国家体制を強制するべく、世界中で行動するようになる。

 ヴェストファリア史観は、欧米起源である主権国家体制を国際関係の典型とみなす点で欧米中心主義的であり、国家をアクターとする点でナショナルである。その意味で、既存の国際関係史は、欧米中心主義型進歩史観的ナショナルヒストリーという19世紀以来の歴史学の主流の一翼を担い、そのなかで発展してきた、といえるだろう。これは、リアルな世界の変化を反映して欧米中心主義型進歩史観的ナショナルヒストリーそのものが批判の対象となっている今日、国際関係史も同様の批判を免れえない、ということを意味する。

 それでは、わたしたちは国際関係史からグローバルヒストリーに乗り換えれば、それでよいのだろうか。

 

4.強みと弱み

 グローバルヒストリーは、欧米中心主義型進歩史観的ナショナルヒストリーを批判しつつ登場した。そのことを反映して、この研究トレンドには強みと弱みが存在する。

 まず、強みとしては、とりあえず2つ挙げておこう。

 第1の強みは、いうまでもなく、21世紀初頭の現実にみられる諸事象にフィットしている点にある。わたしたちの眼前に広がっているのは、合衆国は別格として、欧州諸国の没落・衰退・地位低下・昏迷、事態打開策として設立された欧州連合の右往左往と動揺であり、それに対して、四小竜からBRICSに至る非欧米地域の経済成長と政治的プレゼンス向上である。また、核兵器をはじめとする軍拡、地球温暖化など環境問題の深刻化、人口爆発の激化、独裁と人権無視の存続、差別主義・排外主義の伸長など、進歩の停滞と、場合によっては退歩ともいえる事態である。そして、主権国家よりもGAFAをはじめとする多国籍企業のほうが力を持ち、欧州連合国際連合ASEANといった超国家的組織が誕生して成長し、政治・経済・社会など様々な次元においてヒト・モノ・カネ・情報などが自由に国境をこえるボーダレス化の進展である。これらは一言でいってグローバル化であるが、欧米中心主義型進歩史観的ナショナルヒストリーなる「ものの見方」は、どう考えてもグローバル化に対応できていない。グローバル化は、むしろ「マクロな視点から時空間に接近し、また欧米中心主義を相対化しようとする志向性」を持つグローバルヒストリーと相性が良いのである。

 第2の強みは、ナショナリズムに対する解毒剤として機能することにある。グローバル化が進む時代にあって、当初、わたしたちは、グローバル化ナショナリズムを中和し、その弱体化をもたらすだろうと期待した。第二次世界大戦においてナショナリズムの極北としてナチズム(ナショナル社会主義)や日本型軍国主義(富国強兵の一到達点)を経験してしまったわたしたちにとって、ナショナリズムはいかなるものであっても容易に攻撃的になりうるという教訓を忘れることは不可能だからである。こういうと、ナショナリズムには「良い」ものも「悪い」ものもあるという反論がかえってくるかもしれないが、「良い」ナショナリズムにあっても、それが「内」と「外」を区別し、「外」を排除する論理として機能する点に違いはない。いかなるナショナリズムにあっても、この「排除」の論理という側面は好ましくない。したがって、それは、なんらかのかたちで「包摂」の論理を含むイデオロギーによって中和されなければならない。地域間の相互連関・相互影響・相互依存を重視しつつ時空間をマクロに捉えるグローバルヒストリーには、この「包摂」の論理を下支えする物語を供給することが期待されたし、また供給しうるはずである。

 なお、国際関係史に即していえば、グローバルヒストリーの導入は、17世紀以降、主権国家体制が世界中の国際関係を規定してきたと考えるような誤謬をただす点で、重要な意義を持つ。たとえば、ここ東アジアでは、20世紀に至るまで、主権国家体制よりは、いわゆる「朝貢冊封体制」が国際関係を規定していた。ウェスタインパクトを受けて、そこから、徐々に各国が抜け、主研国家体制に参入し、あるいは強制的にくみこまれてゆく。近世以降の国際関係は、依然として多様であった。

 これに対して、グローバルヒストリーの弱みとしては、ともに抽象的なものだが、とりあえず次の2つが考えられる。

 第1の弱みは、対象となる時空間をいかに大きくしたとしても、依然としてそこには「内」と「外」を区別するボーダーがあり、「外」を排除する傾向は消滅しないことである。たとえば「日本ナショナリズム」を強化するとして「日本のナショナルヒストリー」を批判し、「アジアを対象とするグローバルヒストリー」を提唱したとしても、今度は「アジア」が「内」となり、「アジア以外」が「外」となってしまう。そして「アジア以外」を排除する論理が作動しはじめることだろう。この場合、「アジアを対象とするグローバルヒストリー」は「アジア・ナショナリズム」の孵化器として機能してしまう。

 それでは、対象となる時空間を「地球の全歴史」にまで極大化すればどうだろうか。この場合、「外」は存在しなくなり、ボーダーはなくなり、排除の論理は働きようがなくなり、万事解決……のようにみえる。これこそ、一種の「ホーリズム(方法論的総体主義)の誘惑」である。実際かくして第1の弱みは克服されうるが、ここから第2の弱みが生じる。すなわち「地球の全歴史」を分析する方法が存在しない、という弱みである。歴史学が科学であるとしたら、その最低限のタスクは対象となる時空間の特徴を明らかにすることである。対象の特徴を明らかにするには、かならず他の存在(この場合でいえば時空間)と比較しなければならない。特徴とは、他との「差異」のなかに、はじめて存在するものだからである。それでは研究対象が「地球の全歴史」という時空間の場合、差異を見出し、そこから研究対象の特徴に接近するべき存在としての比較対象としては何があるか。じつは、そのようなものは存在しない。対象が単一化する、すなわち通常の歴史学にとって「地球の全歴史」は研究対象の全領域を占めるからである。[10] 比較対象が存在しなければ、差異を見出すことができず、特徴を導出できず、分析の体をなさない。グローバルヒストリーを論理的につきつめてゆくと、最後には、それは「対象を分析できない科学」という自己矛盾する存在に至ってしまう。科学におけるホーリズムアポリアとでも呼ぶべきものが、ここに姿を現す。[11] グローバルヒストリーは、その極北において、はたして科学たりえるのだろうか。現時点では、おそらく「科学たりえない」が正答だろう。

 

5.「マクロ」から「ミクロ」へ、あるいは「マクロのミクロ化」

 研究あるいは分析の対象を「ナショナル」から「グローバル」に拡大するというのは、これは対象のスケール(範囲)を変化させることによって課題の解決を図るという、いわば「スケールのゲーム」である。そして、対象の時空間的限定が「内」と「外」のボーダーを設定することにつながるからには、そこでは同時に「アイデンティティの政治」がプレイされざるをえない。歴史学において研究対象をいかに設定するかという問題は、一種の「アイデンティティのスケールゲーム」なのである。

 しかし、アイデンティティのスケールゲームに正解はないし、終わりはない。どこまで対象を広げても、ボーダーは残り、アイデンティティは生まれ、ゲームは続く。そして、対象を広げきった途端、歴史学は科学でなくなる。対象が単一化し、比較ができなくなり、差異が発見できず、そのため対象の特徴を把握するという科学の基本的な営為が不可能となる。

 わたしたちは、そろそろアイデンティティのスケールゲームからおりるべきである。その場合、可能な営為としてわたしたちの手元に残るのは「歴史を個人の次元で捉えること」すなわちパーソナライズドヒストリーである。ナショナルヒストリーから国際関係史を経てグローバルヒストリー(および、場合によってはビッグヒストリー)に至る歴史学の研究トレンドの歩みは、ひたすらに「マクロ化」を追求するものであった。しかし、マクロな歴史学には問題がありすぎる。わたしたちは、研究対象をミクロな次元で捉え、そこから様々なスケールの事情に接近する、いわば方法論的要素還元主義を採用するべきではないだろうか。「マクロ化」から「ミクロ化」への転換の勧めといってもよいだろう。

 もちろんわたしたちは、グローバルヒストリーの強みと意義を否定するつもりはない。それがアイデンティティのスケールゲームを楽しむことにとどまり、やがてホーリズムの罠に陥り、その極北において科学の名に値しなくなることを避けるためには、グローバルヒストリーのミクロ化、すなわち方法論的要素還元主義にもとづくグローバルヒストリーを実現するための方法を構想することが必要になるだろう。「パーソナライズド・グローバルヒストリー」という造語にわたしたちが込めたのは、そのようなタスクに取組むことの必要性の認識をもつべきだという提言である。

 もちろん、これは、単なる仮説的な提言にとどまるのだが。

 

[1] 水島司『グローバル・ヒストリー入門』(山川書店・山川リブレット、2010)。

[2] Fevbre, Lucien, Pour une histoire à part entière (Paris: SEVPEN, 1962).

[3] Hunt, Lynn, Writing History in the Global Era (New York : W. W. Norton, 2014).

[4] Febvre, Lucien, Combats pour l'histoire (Paris: Armand Colin, 1952).

[5] Pomeranz, Kenneth, The great divergence (Princeton: Princeton University Press, 2000).

[6] Le Roy Ladurie, Emmanuel, « L'histoire immobile » (Annales. E. S. C., 29-3, 1974).

[7] 桃木至朗編『海域アジア史研究入門』(岩波書店、2008)参照。

[8] 以下、ナショナルヒストリーをめぐる問題系については、なによりもまず(ヨーロッパについてではあるが)Berger, Stefan, et als., eds., Writing the Nation series (8 vols., Basingstoke: Palgrave Macmillan, 21008-2015)を参照。

[9] 文明開化、脱亜論、近代の超克、戦後社会科学、近代化論など、数えればきりがない。

[10] なお「地球外の歴史」と比較することは考えられるし、実際「ビッグヒストリー」と呼ばれる研究トレンドは「ビッグバン以降」したがって地球外の歴史を(比較対象ではないが)研究対象に含めているが、わたしたちは全地球の歴史と比較できるための知識を、地球外の歴史について持っていない。ビッグヒストリーについては以下を参照。David Christian, et als., Big History (New York: McGraw-Hill Education, 2014).

[11] ホーリズムアポリアについては、世界システム論の提唱者として知られるイマニュエル・ウォラーステインの所説に対する佐藤俊樹の批判(『社会学の方法』、ミネルヴァ書房、2011、pp.168-175)を参照。