日本西洋史学会報告⑤

  • 第5試合

谷口良生「フランス第三共和政前期(1870-1914年)における地方議会と議員の経歴―ブーシュ=デュ=ローヌ県議会を中心に―」
そろそろ記憶が(いろいろな意味で)怪しくなってきたが、たしか上記タイトルとは異なり、第三共和政前期(第一次世界大戦までの時期を「前期」と称するのが慣例)におけるブシュ・デュ・ローヌ県(県都マルセイユ)において、県議会が中央政府に発する「請願(voeu)」の性格が行政的なものから政治的なものに変化してゆくことを見出し、その背景を探るものだったと思う。利用される資料は、おもに県議会議事録、そして中央文書館・同県文書館・マルセイユ市文書館に所蔵されている一次資料である。
「政治」と「行政」を峻別し、そのうえで県議会という「組織」に即して両者の関係を探るという谷口さんの研究計画は重要であり、興味深い。
し・か・し。
肝心寛容の「政治」と「行政」の定義が、最後まで出てこない。谷口さんは、今日的な観点から「政治」と「行政」を定義して分析概念として利用することを批判し、当時の人びとが抱いた「政治」と「行政」のイメージに即して分析を進めることが重要であると説く。それはその通りであり、それによってみえてくることが多々あるという意味で生産的なスタンスである。しかし、そのうえで、当時の人びとが抱いたイメージを今日の用語に翻案して提示しなければ、「政治とは政治であり、行政とは行政である」という循環論法に陥ってしまう。この点は山崎耕一さんが質問していて「さすが」と思ったが、もう一歩の踏み込みが必要であり、というよりは不可欠だろう。

日本西洋史学会報告④

  • 第4試合

湯浅翔馬「フランス第三共和政初期のボナパルト派におけるヴィクトル派の形成と展開 1879-1885」
ボナパルト派の我が世の春といえば、なんたって第二帝政ナポレオン3世である……が、1870年の独仏戦争で敗北し、ナポレオン3世が退位し、第二帝政が崩壊したのちも、政治党派としてのボナパルト派は一定の勢力を保ちつづけた。ただし、ナポレオン3世の息子(ナポレオン4世)が早世すると、だれが盟主となるかをめぐり、ボナパルト派は分裂する。ナポレオン3世の従兄弟ジェロームを盟主=未来のナポレオン5世とするジェローム派と、その息子ヴィクトルを盟主とするヴィクトル派である。湯浅さんは、ヴィクトル派の歴史を、その中心人物ジュール・アミーグとポール・ド・カサニャックの政治思想や行動の異同を中心に、詳細に追いかける。もちいられる資料は、両者の著作集、同時代の刊行文献、そしてパリ警視庁資料(だったかな? もしかすると中央文書館資料[cote BB]だったかもしれない)。
スダン(独仏戦争におけるナポレオン3世の降伏の地)以降のボナパルト派について、ぼくは知らないことだらけだったので、とても参考になった(って、かつて第二帝政を研究したものとして、それでよいのか、自分?)。
し・か・し。
報告の冒頭で全体的な議論の枠組みが十分に提示されないせいか、湯浅さんが提示するファクトがフランス史総体のなかでどこに位置づけられうるのか、イマイチはっきりしない。それゆえ、読後感ならぬ聴後感が「で?」に留まってしまうきらいがあり、聴衆としては不完全燃焼だった。
今年からフランスに留学するそうだが、ぜひ「全体を見る眼」((c)二宮宏之)をゲットしてきてほしい。でも、ボナパルト派研究の第一人者エリック・アンソー(パリ第4大学)あたりに聞いてもらったら、ムチャクチャ喜ばれるかもしれないな、これ。

日本西洋史学会報告③

【追記】
ギャップにも国鉄が走っていた。ごめん、ギャップ。
【本文】

  • 第3試合

藤原翔太「ナポレオン体制期における地方統治システムの転換―名望家時代の揺籃―」
フランスの中でも1、2を争う弩マイナーな県(失礼!!)オート・ピレネーを対象とし、フランス革命末期から第一帝政期における市町村長の任命プロセスの変遷を辿り、その変化のなかに「名望家(notables)」支配の到来を見出す。
藤原さんとは、今から何年前のことになるだろうか、槇原茂さんの共同科研費プロジェクトの一環として広島大学で開かれたセミナーに研究協力者として出席した際にお会いして以来である。オート・ピレネーを研究していると聞いて「なんでまた? 敬虔なクリスチャン(泉で有名なルルドは同県にある)なのか?」などと思ったものだが、それもそのはず。同県の県庁所在地がタルブであるなどとは、一般のフランス人も知らないのではなかろうか。日本人歴史学者が研究する対象としては、伊丹一浩さんのオート・アルプ県と並んでマイナーである。ま、県庁所在地ギャップに(たしか)国鉄が通っていないオート・アルプに比すれば、タルブにTGVが通っているだけ、オート・ピレネーはマシかもしれないが、それにしても、うむ。話がずれたが、藤原さんは、その後、トゥルーズ大学に留学され、わずか3年で博士を取得。博士論文は同大学出版会から刊行予定とのことだった。
今回の報告は、博士論文のエッセンスを提示したもののようだったようだが、利用された資料(中央文書館、県文書館、市町村文書館、その他刊行資料)の量と質、たどられる論理のソリッドさ、提示されるアーギュメントの「過不足のなさ」など、上記キャリアにふさわしい報告だった。こういうしっかりした報告を聞くと、嬉しいというか、うらやましいというか、なんというか。
ぜひ、藤原さんには今後の日本フランス史学界を背負っていってほしいものである……って、またも上から目線。トシだな、トシ。

日本西洋史学会報告②

  • 第2試合

野口理恵「女子修道会による保育施設の運営と世俗化―19世紀パリにおける福祉と教育の狭間―」
フランス革命期から20世紀はじめ(1905政教分離法)までのフランスが、カトリック教会支持派と、脱宗教化支持派(世俗派、共和派とニアリーイコール)のあいだで激烈な文化ヘゲモニー闘争が展開された時空間であることは、谷川稔さんをはじめとする先達の研究のおかげで、日本でもよく知られるようになった。そして、ヘゲモニー闘争の主戦場となったのが教育の領域であり、同領域でカトリック教会支持派の主要アクターとなったのが各地で学校を運営した修道会である。
野口さんは、そのことを確認したうえで、それでは「福祉の領域では闘争はあったのか、あったとしたらいかなる形態をとり、いかなる過程を辿ったのか」という問題を設定する。そして、具体的な分析対象として、教育と福祉が入り乱れている乳幼児教育施策、具体的には幼稚園(salle d'asile)と保育所(creche)を採用し、修道会立の幼稚園・保育所にかかわる政策や実態を、19世紀とりわけ第三共和政前期について明らかにする。用いられる資料は、おもに同時代刊行資料および定期刊行物である。
福祉と保育がオーバーラップする領域における脱宗教化の形態・過程・程度に着目し、その観点から幼稚園・保育所を分析するというのは、なかなかステキであり、また、きわめて重要な研究計画であるといってよい。
た・だ・し。
野口さんの報告は「福祉」あるいは「教育」という最重要な概念がなにを意味するのか、あるいは当時なにを意味していたのかが、結局わからないままに終わってしまう。幼稚園は「教育」施設であり、保育所は「福祉」施設であるといわれ、また実際日本でもそのような区分が長らくされてきたことは事実であるが、それでも「福祉や教育とは何か/何を意味していたか」を明らかにしたうえで議論を進めないと、論点がぼやけてしまうのは、これは避けられないところだろう。
まずは、そこからではないのか(上から目線……トシだな、トシ)。

日本西洋史学会報告①

先週末(5月20-21日)は「<日本西洋史学>界、年に一度の大同窓<会>」の略語と化しつつある日本西洋史学会が一橋大学で開催され、20日(土)午後の公開講演(藤田幸一郎さんと見市雅俊さん)と21日(日)午前の部会別自由論題報告(個人発表)を聞いてきた。その間に3回のアルコール摂取機会、すなわち

  • 19日(金)夜:新宿の焼き鳥屋で、編訳書『歴史学の最前線』刊行の打上げ、
  • 20日(土)昼:国立のフレンチで、共著『世界史/いま、ここから』刊行の打上げ、
  • 同日夜:中野の地中海料理カルタゴ(十数年ぶり!!)で、大学入試センター試験作題部会の同窓会、

があり、21日(日)に至っていいかげんヘロヘロしてきたので、同日午後のパネルは失礼して仙台に逃げ帰った、という次第である。亜熱帯らしく暑かったし、ヒト大杉栄だったし、東京。
しかし、せっかくなので、ぼくが聞いた自由論題報告5本について、簡単に紹介およびコメントしておきたい。

  • 第1試合

東風谷太一「ビールに憑かれた人びと―19世紀前半期ミュンヒェンにおける都市・ビール・騒擾―」
なかなかステキなメインタイトルなので(ひさびさのキワモノかと)期待していたが、良い意味で大いに裏切られた。
1844年バイエルンミュンヘンにおけるビール騒擾について、モラル・エコノミー論、ソシアビリテ論、法意識研究などを組合せてツールとして使用しながら分析し、当時の都市民衆とりわけ職人たち旧中間層のあいだには大略「ビールを飲むことは職人共同体メンバーの(これまでしばしば言われているような権利ではなく)義務であり、その義務を履行できるようにすることが慣習法的な正義であり、その正義を妨げる価格でビールを販売することは不正である」という観念が共有されていたという、じつに興味深い結論を導出している。
各地の国家文書館、バイエルン州文書館の所蔵資料、当時の刊行物など、利用したソースの質・量もほぼ十分な水準に達していると思われる……が、ぼくはドイツ史プロパーではないので、これは単なる推測。
終了後に(同様なテーマをプロイセンにおけるパンについて分析してきた先達たる)山根徹也くんに聞いたら、東風谷さんは長期の留学経験がないはずだということで、それでこれだけのアーギュメントを構築できたのであれば、今後が楽しみだ。若干論理にアクロバティックなところがあり、かつ、その点に関するソースの裏づけが弱い(この点は報告後の質疑応答で指摘されていた)という問題はあるが、若き研究者のしごとは、これは面白ければよいのである、というのはさすがに暴論かもしれないが、良いものを聞かせてもらった。

北方謙三『三国志』


新聞かなにかで紹介されていたせいで、いまごろになって北方謙三三国志』(角川春樹事務所、全13巻、1996-98) を大人買いし、一気読みしてしまった。一冊2時間としても、26時間を費やしたことになる。
そして、26時間費やした結果として記憶に残ったのは、

  • 曹操は、どうやら脳溢血(たぶん脳梗塞だと思う)で死んだことになっている。
  • 劉備は、どうやらガンで死んだことになっている。
  • 諸葛亮は、どうやら心筋梗塞で死んだことになっている。

の3点。おお、現代日本人の三大死因がちゃんと割振られているではないか。
しかし26時間もかけて……自業自得とはいえ、またツマラ(以下自粛、(c)十三代石川五ェ衛門)。

連休明ける。


そんなわけで連休も明け、「いつもの日々」が戻ってきた……が、寒暖の差が激しいところに黄砂の影響も重なり、周囲では体調を崩している人が多い。一昨日は、宮城県にインフル注意報が再発令された。5月にインフル注意報とは……時代は変わるものである。
しかし、今年度はなぜか気ぜわしい。タスクは減っているというのに、精神的な余裕がイマイチ不在である。なぜか?、とつらつら考えているうちに、要するに「午前中の授業が多い」せいだということに気付く。夏学期は、月・火・木と、週3回、午前中に授業が入っている。これは、画期的なこと(当社比)なのである。世間一般から見たら「なにを贅沢なことを」と思われること必定だが、ぼくは午前中に自分のしごと、つまりリサーチをするたちなので、イタイ。午後であれば「授業と学内行政の時間だ」と割切れるので、授業だろうが会議だろうが、それなりに気合が入るのだが、うーむ。長年の習性というのは、これはどうしようもないのだろう。
さて、そろそろ今日の授業の準備をしなければ。
【追記】
と書いたのは8時すぎのことだったが、

  • 1時間目のパンキョーが終わり、昼食の弁当をゲットしてからオフィスに戻って11時近く。
  • 弁当をかっこみつつ、エロー県文書館ADHで撮影してきた資料をちょっと読んだら13:30。
  • 14時から教授会で、今日は画期的にはやく終わったが、それでも早や夕方。

うーむ、もうちょっと資料を読みたいのだが、先述したごとく午後はアタマが授業and/or会議モードなので、それは出来ない相談なのであった。やっぱり授業は極力午後に入れてもらうことにしよう。