『いま歴史とは何か』

ディヴィド・キャナダイン編『いま歴史とは何か』(平田雅博他訳、ミネルヴァ書房、2005、原著2002)

(1)かのエドワード・カー『歴史とは何か』(清水幾太郎訳、岩波書店岩波新書、1962、原著1961)刊行40周年を記念して2001年にロンドン大学で開催されたシンポジウムの記録。こんなにすぐに日本語で読めるとは、ありがたい限りである。過去40年間、歴史学の中心的な課題は「原因の説明」から「意味の理解」へとうつりかわってきたという全体的なコンセプトのもと(序文)、社会史、政治史、宗教史、ジェンダー史、文化史、思想史、帝国史の諸分野について、欧米の一線で活躍している歴史家が研究状況を回顧および展望している。

(2)各分野をとりあつかう章は、それら分野における研究動向を知るうえではインフォマティヴで、いろいろと役に立つ。たとえば、政治史については、「ハイ・ポリティクス」政治史と「新しい」政治史が収斂しつつあり、しかしながら、この収斂に際しては国政史が方法論的に排除されかねない、という指摘は興味深い(74〜5ページ)。ただし、これら各章を読んでも、『歴史とは何か』刊行後の40年間に歴史学が方法論的にどう変わったかについては、明確な像はうかびあがってこない。ジェンダー史の章を執筆したアリス・ケスラー=ハリスを除き、そもそも彼(女)たちは『歴史とは何か』をちゃんと読んでいるんだろうか?

(3)歴史学方法論の回顧と展望という点では「エピローグ」(フェリペ・フェルナンデス=アルメスト)が興味深い。彼は、記憶の問題について、それを「言語」のレベルではなく「認知」のレベルで捉えるべきことを説く(249〜50ページ)。つまり、もはや「言語」は「この紋所が目に入らぬか」的な最終審級(独立変数)ではなく、「認知」によって説明されるべき、単なる従属変数とみなされなければならないのだ。これは、件の「言語論的転回」のインパクトを歴史学者がどうこえてゆけばよいかについての、示唆的な指摘として読まれなければならない。たしかに、考古学をはじめとする周辺領域を垣間見ると、まもなく歴史学は「ポストモダニズムフーコー、言語論的転回」ではなく「認知科学」にもとづいて議論をしなければならなくなるだろうという気が、ぼくもしてくる。もっとも、それじゃどうすればよいかといわれると、具体的な処方箋はもちあわせていないのだが……。

p.s.ちなみに「訳者あとがき」は、冨山太佳夫、遅塚忠躬といった諸氏の議論にひきずられてか、この点を看過してしまい、フェルナンデス=アルメストを「ポストモダニズムフーコー、言語論的転回などにはネガティヴ」な「素朴実在論」者とみなしているようで、ちょっと残念。事態はもはやその先に進んでいるのだが……。