『「社会」への知』上巻

盛山和夫他編『「社会」への知』上巻(勁草書房、2005)
いただきもの(徳田さん、本当にかたじけない)。

(1)先日の続き。理論編たる上巻を読む。圧倒的に面白かったのは第1章「構想としての探求」(盛山和夫)。社会学が客観的な真理に至りえない理由を、認識論的相対主義や言語論的転回といった他の諸科学に共通する理由だけではなく、というよりも、なによりも、リフレキシヴな学問であるという社会学の独自性に求める(ちなみに「リフレキシヴreflexive」を再帰的と訳すと、一挙にジャーゴンぽくなり、ぼくの目には意味不明になるのは、一体なぜか)。つまり、自然科学をまねて客観的な真理に至りつこうとするプロジェクトは放棄されるべきだ、というのである。うーむ。

(2)それでは、経済学はどうか。自然科学の客観主義的方法を社会学に取り入れた優等生とみなされ、また、そのように自称している、われらが経済学である。ところが、じつは、経済学とてリフレキシヴな学問であることに違いはない。それも、たんに「経済学も社会学とおなじく社会科学なんだから、当然だろう」という一般的抽象的なレベルの話ではない。具体的な事例に即して、経済学がリフレキシヴな学問であることを問題にしなければならない、というところにまで、事態は至っている。それは、例の「合理的期待形成」仮説をどう考えるかという問題である。経済現象を把握し、叙述し、分析するという、第三者だったはずの経済学者が、「経済アクターは経済学者と同程度の合理性をもつ」という仮説が導入されたとたん、当事者の位置についてしまう/つかされてしまう。かくして、合理的期待形成仮説を導入したあとの経済学においては、「アクターとしての経済学者が、第三者として経済現象を分析できるか」というリフレキシヴな問題が問われざるをえなくなったのである。たぶん。

(2)他の論文では、第4章「社会性の起源・序」(大沢真幸)が面白かった。でも、難しかった。