『文字の経験』

森田伸子『文字の経験』(勁草書房、2005)

(1)「教育思想の社会史」とでも呼ぶべき新たな学問領域を切り開いてきた教育史学の旗手の手になる論集。「音声=経験中心主義」と「文字=理論中心主義」の対立を超えようとしたジャック・デリダの所説に示唆されつつ、「経験」を重視する民衆文化と「理論」を重視する「ハイ・カルチュア」の狭間で生きた人々の営みを再評価しようと試みる。

(2)2つの文化の対立の超え方については、「接合する」とか「多様なリテラシーがある」とかいった言説が並び、あまり新味はない。もっとも、この本の真骨頂は、そんなところにはない。18世紀のフランスで羊飼いから大学者になった人物の生涯をたどり、さらにはそれを20世紀のイタリアで同様の生涯をたどった人物と比較するといった、論の運びの繊細さこそを、ぼくらはこの本から読みとらなければならない。

(3)ちなみに、この本は

本書は研究書として書かれたというよりは、私の自由な考察を述べたものとなりました。そのため、先行研究に関する記述や註は最小限にとどめてあります。各テーマについての諸研究や議論は、専門家にとっては周知の、それ以外の人にとってはそれほど意味のないもの、と考えたからでもあります(276頁)

という理由で、レファレンス機能が弱くなっている。しかし「各テーマについての諸研究や議論は、専門家…以外の人にとってはそれほど意味のないもの」という文章を「文字」を論じる本に見出すのは、なんとも寂しいことである。レファレンス機能は、読者を更なる知の宇宙に導くために設けられるべき出入り口だというのに。