『ケインズ経済学のミクロ理論』

根岸隆ケインズ経済学のミクロ理論』(日本経済新聞社、1980)

(1)『経済セミナー』連載予定「名著再訪・20世紀日本の経済学編」11月号は、根岸隆さんの通称『ケインズミクロ』である。『ケインズミクロ』といえば、ぼくは大学学部2年次の「ミクロ経済学」を根岸さんに習ったのだが、教科書は根岸他『価格理論』(岩波書店)全3巻を全部!!と、それにプラスして、この『ケインズミクロ』だった。いま思うと、そんな無茶な…しかも月曜日1時間目だったしなあ。それでも、おちこぼれのぼくも含めて、かなりの学生は授業に出席していたように思う。「ネコ以下」としては大したもんだと思うが、それもきっと根岸さんの人徳のなせる業だったのだろう。

(2)根岸によれば、ミクロ経済学の基本をなすのはワルラス理論であるが、この理論では不完全雇用均衡の存在を説明できない。根岸は、その理由を、ワルラス理論が貨幣の役割を重視していないことに求め、貨幣取引を原則とするかたちでミクロ経済学を再構築することを提唱する。すなわち、貨幣が存在すると、一般均衡が成立する以前に局所的な取引が成立する。この状況では、消費者は価格変動に対して非対称的に振舞うため、企業は屈折需要曲線に直面することになる。ここから超過供給が発生し、生産は減り、失業が生じる。かくして、貨幣取引にもとづく経済システムでは、不完全雇用均衡がもたらされうる。本書には、このほか、完全情報や完全競争といったワルラス理論の前提をゆるめるといかなるモデルが導出できるかについて、さまざまに示唆的な考察が含まれており、きっと読者をわくわくさせることだろう。

(2)もっとも、その後の「近代経済学」は、2つの経済学のシームレスな接合という根岸の課題を共有しつつ、それを根岸(ミクロ経済学の再編)とは逆の方向(マクロ経済学の再編)で実現しようとしてゆく。そこから、いわゆる新古典派マクロ経済学が成立する。その意味では、その後の経済学の歴史のなかで、本書の提言が十分に生かされることはなかった。ただし、たとえば、根岸が重視した消費者の非対称的なふるまいは、近年の行動経済学・実験経済学の知見と整合的である。あるいはまた、不完全情報にもとづく経済モデルの構築という課題は、いわゆる情報の経済学を生んできた。ぼくのような素人目から見る限り、根岸の提言は今でもアクチュアリティを失っていないようにみえるのだが。