『シティズンシップの教育学』

シティズンシップ研究会編『シティズンシップの教育学』(晃洋書房、2006)

(1)学振・人社プロ「グローバル化時代における市民性の教育」が始まって2年がたとうとしている。この間、経産省が「市民性(シティズンシップ)教育」をめぐる研究会を組織して提言を発表させたり、「市民性教育」をタイトルに掲げる著作が発表されたりするなど、「市民性教育」という言葉もずいぶんとポピュラーになったもんだ。で、この本では、政治教育、法教育から、多文化教育、環境教育、あるいは性教育など、様々な教育の分野における市民性教育の可能性について、1970年前後に生まれた若手の研究者たちが論じている。なかでも人目を引くのは、クォータ制を論理的に擁護するなどフェミニズムの良質な部分の一端を垣間見せてくれる田村哲樹フェミニズム教育」。

(2)別の意味で人目を引くのが、黒宮一太「愛国心教育」だろうか。中道左翼から左翼的な論文が並ぶなかで、反米・伝統主義的な保守主義の立場から憲法教育基本法の改正を主張し、その延長線上に愛国心を備えた市民の登場を展望するというスタンスをとるという根性は、買える。でも、立論の根拠が

ある大学に籍を置き、そこで知り合った友人たちと交際しているとしよう。その交際のあり方を考えてみるなら、言葉は日本語で、友人たちとの関わり合いのなかで自分がとる立ち居振る舞いは、日本の歴史から来ている慣習や習俗にどこかしら規定されているとわかる。そして、そうしたものがじつはこの自分を支えているのだということに気づかされるのではないか(83ページ)

あたりに留まるのは、ちょいと哀しい。できれば「コミュニタリアニズムとかいう舌を噛みそうな思想があって……」なんて一節がほしいところだ。まあ、とにかく、この一節に

  • 歴史の主体として「日本」という単位をアプリオリに前提していいのか? 
  • その「ある大学」には留学生はいないのか? 
  • 「日本語」ならざる方言をしゃべるやつはいないのか? 

といった疑問を感じるのは、ぼくがフォッサマグナのむこうは「西日本」という別の国だと信じ、「留学生を増やすにはどうすればよいか」とか「英語で授業をしろ」とかいった問題に直面し、ついでにときどき仙台弁が口をつくからなんだろうけど。