『近代・戦争・国家』

畠山弘文『近代・戦争・国家』(文眞堂、2006)
おすすめ。

厨先生、所説と文体は好みじゃないけど、はげしく面白かったです。つまり、要約すると次のようになるわけですね!!


飲み屋にて。
「さて、次はなにいきますか……おっ珍しい、紹興酒があるぞ。どうですか」
「うーん、ぼくは紹興酒きらいなもんで、日本酒かなぁ……あれっ、どうかしましたか」
「なんで日本酒なんですか」
「なんでって……嫌いじゃないし。それに、おいし……」
「日本酒が好きだなんて。それ本当ですか」
「本当も何も、自分が何を好きかってことくらい、わかりますよ。そりゃ酔っぱらってますけどね」
「いいえ、うそです。あなたは《動員》されてるんです」
「ど、動員ですか」
「そうです、動員です。《国家》があなたを動員してるんです」
「こっ、国家って、ま〜さか〜」
「茶化さないでください。来るべき《戦争》に備えてるんです」
「きっ、来るべき戦争って、なんですか、それは」
「先日防衛庁の内部文書がWinnyで流出したでしょ。ちなみに紹興酒は仮想●国の酒ということになりますね」
「いや、しかし……」
「戦時閉鎖経済下で飲めるのは国産の酒だけになります。つまり日本酒ですよ。日本酒を好きだというのは、自分の意思などではなく、そう思わされてるにすぎないっっっっ!! 
段落を改めて簡単に説明しておこう。日本酒を選び取るという、一見《自発的な》営みのなかにこそ、動員する国家の姿が表象されているのである。そして、意思決定する《主体/服従者》の自発性を尊重しつつ動員するメカニズムたる、この国家とは、じつは中世世界の崩壊にあたって登場する国際戦争を遂行するためにいちはやくヨーロッパで創出されたメカニズムにほかならない。かくのごとき歴史の見方を《動員史観》と呼ぶとすれば、そのキーワードは《戦争、国家、動員》であり、思想的な創始者ニーチェヴェーバーフーコーである。日本における唱道者としては、まずは西川長夫と山之内靖に指を屈するべきであろう。それにしても、かくして現代社会は何よりもまず動員社会として現出するのであり、自発的に動員される主体たる我々は《美学》としての日常を生き抜かねばならないのである。
諸君、覚醒せよ。いまこそ酩酊から覚醒し、《受苦的存在》として《新しい社会運動》を担おうではないか。たて〜〜うえたるもの〜〜〜よ〜〜、いま〜〜ぞひはきたる〜〜……」


親父「……お客さん、帰ってくれ。うるさいって苦情が出てるから」