『言説分析の可能性』

佐藤俊樹・友枝敏雄編『言説分析の可能性』(東信堂、2006)

(1)フーコーの影響下に構築されてきた方法論たる《言説分析》に関するテクストブック。一読して、うーむ、よくわからん。人間ドックの待ち時間に、神経集中しないで読んだからだろうか。それとも、ぼくが素人だからだろうか……多分両方だろう。とはいえ、比較的わかる論文もあれば、あまりよくわからないものもあることは事実。前者に属するものはなにか、といえば、それは橋爪大三郎知識社会学と言説分析」であり、そしてなによりもまず佐藤俊樹「闇のありか」である。

(2)それにしても、「言説分析」について《ただしく》語ることは、いかに難しいことか。そうしようとすれば、たとえば「闇のありか」の最後にある

言説分析の必然性と絶望と希望は実は同じものであり、だから、その三つが重なりあう瞬間に「言説」という言葉は最も生きてくる。もちろん私に他人の言葉づかいを検閲する権利はない。今書き連ねている言葉さえ、私は他人に引き渡すしかない。使いたいように使うといわれれば、引き下がるしかない。しかし、それでも私は、言葉はそれが最も生きる瞬間に使ってあげたいと思う。もし「言説」といわずにすむのなら、無理に使わなくていいではないか。「言説」という言葉は、言説としかいえない瞬間に空けてあげればいいではないか。いや本当はただ叫びたいのだ。もうこれ以上痛ましい言葉の使い方をしないでくれ、と。お飾りや王冠として連れ回し、引き裂き、使い捨てる。そういう風に言葉が使われるのはあまりにも痛い。「言説」という言葉を使わざるをえなかった人々がこめた絶望と希望を、私はただ通りすぎたくはない。言葉で伝えられることはあまりに少なく、そして苦しい。ふさわしくなくはない言葉が見つかるのは、本当に、奇跡に近い出来事なのだ。だからせめて、自分にできるかぎり、おのれの力のおよぶかぎり、痛ましくなく書きたいし、聞きたいし、読みたいと思う。言葉は劣等感を癒す遊具でもなければ、帝国を築く兵器でもないのだから(22頁)

といった文章を紡ぎつづけるしかないのだろうか。