『戦後の終わり』

金子勝『戦後の終わり』(筑摩書房、2006)
いただきもの。

(1)金子さんの時論集。メインは2004年春から2年間『朝日新聞』に連載していた「論壇時評」である。金子さんの所説がほとんどブレていないことと、そして、なによりも、ほんの2年まえのことなのに、ここで論じられているさまざまな出来事を自分が忘れていることに、驚かされる。

(2)ちなみに、現代日本の思想状況について、金子さんは

オルタナティヴ理論の喪失は、日本では「社会主義体制」が崩壊する以前から始まっていた。新自由主義イデオロギーが蔓延した1980年代に、それに対抗していた「ポストモダン左翼」がそれを象徴している。マルクス主義の行き詰まりを意識していた人たちは、それに飛びついた。確かに、少なくとも欧米諸国では、「脱中心」と「差違」をキーワードにして、人種主義やジェンダーなど少数派差別に抗する論理を提供する限りでは有効性を保持していた。しかし、日本ではそれは知的消費の対象になってしまった。その後の思想的分解は、さらに深刻さを帯びてくる。ある者は、バブルを批判する枠組みを持たないまま、それが崩れたあとも「大きな物語」は終わったとして、その残り香に酔っていた。ある者は、全体を語ろうとする意欲を失い、マイクロ権力の言説批判や「サブカルチャー」のオタク的解説に明け暮れ、ひたすら、起きる現象を過去の知識をつぎはぎして表層を「説明」する「物知り競争」へと堕していった。とりわけオウム世代と呼ばれる世代に、こうした傾向が強く現れている。実際、バブルとバブル崩壊が繰り返され、そしてまさに中心においてブッシュ単独行動主義が出現してさまざまな政治・経済・社会の諸問題が生み出されても、左派や批判派は具体的なオルタナティヴを提起できずに、既存の冷戦型政策対立軸の間を動揺しているだけである。さらに、メディア政治を通じて異様なほどに同調する社会を問う視線も失われてしまった。実際、「ポストモダン左翼」は歴史相対主義や文脈主義に溶解して全体を語れる論理を失ってしまった結果、彼らの中から新自由主義よりはましだとして古いリベラリズムを焼き直したり、「愛国主義」へと転換したりする者も現れた。もはや左派・批判派は新しい知の組み換えへの意欲を失い、思想的混乱の中で一貫性を完全に失ってしまったように見える(14-5頁)

と厳しい評価を下しているが、それでは

  • 「バブルを批判する枠組みを持たないまま、それが崩れたあとも《大きな物語》は終わったとして、その残り香に酔っていた」人
  • 「全体を語ろうとする意欲を失い、マイクロ権力の言説批判……に明け暮れ」た人
  • 「全体を語ろうとする意欲を失い……《サブカルチャー》のオタク的解説に明け暮れ」た人、
  • 「ひたすら、起きる現象を過去の知識をつぎはぎして表層を《説明》する《物知り競争》へと堕していった」人
  • 「歴史相対主義や文脈主義に溶解して全体を語れる論理を失ってしまった」人
  • 新自由主義よりはましだとして古いリベラリズムを焼き直した」人
  • 新自由主義よりはましだとして……愛国主義へと転換した」人

とは、おのおのだれを念頭に置いているのでしょうか。