『カルチュラル・ターン』

フレデリック・ジェイムソン『カルチュラル・ターン』(合庭惇他訳、作品社、2006、原著1998)

(1)マルクス主義文芸批評家(本当か?)ジェイムソンの論文集。さっぱりわけわかめでつまらない文章がダラダラと続き、布団のなかで半分眠りながらページを繰っていたら、突然

ポストモダンにおいて、私たちがその終わりを、永遠の終わりを見たと考えてきた古い事物の多くが回帰している……。わたしたちは哲学そのものの大規模な復活、しかもアカデミックで専門領域にこり固まった、もっとも時代遅れな哲学の復活に直面している……。そのようなわけで「理論」がかつての哲学の学問分野を解体してしまったことは、今となってはつかのまの現象であったように思われるのだ。いまや哲学とその諸分野は効力をとりもどしている。第一に、ニーチェマルクス、そしてフロイトが存在しなかったかのような倫理学の回帰として、哲学は復活している……ニーチェはあらゆる古い倫理的命令が野蛮性にあふれかえっていることを発見したが、それは当時衝撃的な発見であった。フロイトは意識的な主体とその合理的説明を解体し、主体を形成し、構成している未知の諸力をかいまみた。最後にマルクスは、あらゆる古い個人的倫理の諸範疇を新たな弁証法的で集団的なレベルに投げあげて、倫理とみられていたものがいまやイデオロギーとして理解されねばならないとした……。倫理学の復興にはさらに新型のポスト構造主義的変種、すなわち「主体」への回帰がある。この新しい主題の響きになんのあいまいさもないのは当然である。というのもそれが新規であるのは主に、それが対称をなす先のドクサである「主体の死」を修正することから生まれてきたからなのだ。そのような来歴ゆえに、理論と同様に(あのいらいらさせる略称をもちいるなら)「ポスト構造主義」一般の膨大な知的業績は、いまでは無に帰してしまった(それも、マルクス主義もしくは六〇年代と一緒に)と認めてさしつかえないだろう(131-3ページ)

という文章に出っくわし、一気に眠気がさめる。そ、そーか、

  • ポスト・モダニズムの時代は終わり、いま(1998年)はプレ・ポスト・モダニズムの時代である
  • だって主体が回帰しているじゃないか

ということだったんですね!! 

(2)んでもって、

この主体の復興とともにもちあがった「責任」の概念は、やはりその由来である倫理学に属するものである……。もちろん近年ニーチェは無数の書きかえをくわえられてきた。フロイトは不可解なほど熱心な非難の的になってきた。しかしあきらかにマルクスの評判を落とすことこそが、ポストモダニズムポストモダンの様々な概念の彫琢がねらっていたことなのである(つけくわえる必要はないと望んでいるが、わたし自身の仕事においてはそうではない)(133ページ)

ということは、つまり

ってことじゃないですか!! うーむ、そーだったのか……マルクスびいきなのはご愛嬌ですが、ジェイムソン先生、ついてゆきます。

(3)しかし

マルクスの生涯の仕事は、彼の権威にうったえた多数の国家社会主義の凋落によって「反証された」と信じられた。それゆえに、マルクスにふれることを禁じるこの新たなタブーによって残された真空にこそ、哲学という学問分野はもっとも重要で症候的なかたちで復興し、忍び込んだのである。わたしが言っているのはほかならぬ政治哲学のことである。「政治学」とは近代という(もしくはマルクスの時代という)長い夜のあいだずっと、経験的で実践的な分野であった……。いまやこれらのテキストはアカデミックな日の光のもとに再登場し、中庸を旨とする有益なる知をもってビッグ・ビジネスの時代にふたたび語りかけるのだ。あたかも、ロックやルソー、ホッブズカール・シュミットなどがみな政治学と呼ばれるものの発展に貢献することに野心をかたむけていたかのように! もしくは政治哲学と再命名された、まだ存在しなかったものに貢献することに! 今日、これらの古典的テキスト群は専門的な精査を受け、現在の後期資本主義イデオロギーに再装備された四つのC……契約、政体、市民権と市民社会……にかんする有用な素材を見いだされた。それらのテキストは、くたびれきった多くの放浪者たちが湯を浴び、ひげを剃って新しいこぎれいな服を着たように気づいてみれば大学シラバスに復位しているわけだ(133-4ページ)

ってのは、ちょっと政治思想研究者たちに冷たすぎるんじゃありませんか?