きみはポワラーヌを知っているか?

田中秀臣さんに「フランスネタを…駆使して愛嬌、、もとい経済学のとっつきにくさをカバーしようとしてい」る「日本の経済学論壇系ブログ」と過大評価されてしまったので、とりあえず経済(?)の話題をひとつ。


ポワラーヌというパン屋を知っているだろうか。パリは6区、シェルシュ・ミディという細い裏通りにあるが、フランス最高の田舎パン(pain de campagne)を提供することで世界中に知られている(くせに、ぼくが15年前に一度だけ行ったときの印象では小さく古い)店だ。いまはどうかわからないが、バブル華やかなりし時代には、日本のデパート(たしか高島屋)が週に一度田舎パンを空輸!!していたという記憶がある。そこの店主が、な、な、なんと……、という記事が『ル・モンド』土曜版に載っていたのを読んだのは、ラヴァルからレンヌに向かうTGVのなかだった。以下がその粗訳である。

「アポロニア・ポワラーヌ」(『ル・モンド2』2007年2月3日)


パリ6区シェルシュ・ミディ通りにあるポワラーヌには、毎日、旅行者やお得意さんが殺到している。しかし、だ、このパンがちょっとアメリカの香りがすることを知っている人が、どれだけいるだろうか。
といっても、もちろん心配はご無用。この店の名声は、だれにも真似できない生地を石焼釜で「その場で」焼くことから生まれたわけだが、この手続きは75年前からいままで一貫して守られているし、このプロセスはしっかりとチェックされている……もっとも、ケンブリッジマサチューセッツ州)はハーバードのキャンパスからだが。同社代表取締役社長は、一年のうち8ヶ月はここに住んでいるのだ。代表取締役社長アポロニア・ポワラーヌ、21歳、パン屋の孫娘にして娘、そしてみずからもパン屋である。
2006年9月、彼女はハーバード・ビジネス・スクールの最終学年(4年)に進級した。彼女が住んでいるのは、12平米の学生用の部屋である。毎朝授業が始まる前と毎晩寝る前に、彼女はそこで自らの家族企業、つまり年間売上1500万ユーロ(約23億円)にして従業員数150人、3軒の店舗(パリに2軒、ブリュッセルに1軒)と工場(エソンヌ県ビエーヴル)からなる企業の行く末をチェックしている。
 電話とインターネットがなかったら、こんな遠距離経営は不可能だっただろう。アポロニア・ポワラーヌは毎日PCに顔を近づけ、同社の経営状態をチェックし、成長戦略を評価し、日常的な問題を解決する。そう、まるでサンジェルマン・デ・プレあたりにいるみたいに。5時間の時差はあるが、パンの焼上がりを毎日チェックすることにはな〜んの問題もない。製造責任者パスカルとの電話は、一種の儀式みたいなものになった。パスカルは、ときには、焼きあがったパンの写真を電子メールで送ってくる。オーナーの眼はパン皮の薄さを、耳の色を、気泡の大きさをチェックする……。いいアイデアを思いつくべく、アポロニア・ポワラーヌは4から6週間に1回はパリに戻るようにしている。「電話や電子メールは、直接見ることにはかないません。人間が五感を備えていることには、理由があります」と、彼女は店の裏で語る。1932年、彼女の祖父ピエール・ポワラーヌがこのパン屋をオープンしたのだった。
4年半前、この「フランスの美食の華」の繁栄を維持する能力が彼女にあることに賭ける人は、おそらくいなかっただろう。時間を遡ってみよう。2002年10月31日、リオネル・ポワラーヌとイビュ夫人(アメリカ出身)は、カンカル湾(イル・エ・ヴィレヌ県)上空で、ヘリコプター事故で亡くなった。この日フランスパン製造業は、そのもっとも有名な職人の一人を失った。ピエール・ポワラーヌの息子は、とくにフランス内外にパン販売店網を築き上げることによって、この家族伝承の味を国際的に広めることに成功していた。彼の死去によって、あの有名な天然酵母パンは消滅するか、あるいは(より可能性がありそうだったが)巨大パン製造業者によって買収されるのではないか、と思われた。しかし、18歳のアポロニアは、挑戦を受けてたった。彼女によれば「私は一瞬もためらいませんでした。パン屋になることはわたしの夢だったし、いつかそうなるだろうと確信していました。ただし、こんなに早くそのときが来るとは思いませんでしたけれど」。
なんでも、彼女の両親はパン籠でゆりかごを作ったんだとか。もうすこし大きくなると、毎週水曜日、彼女はお釣りを返したりクッキーを包んだりして働いた。思春期に入ると、パパの、ただし慎重な眼差しのもとで、店の地下にあるパン焼釜を使ってパン作りの修行をした。パパの眼差しが慎重だったのは、彼自身は「パン屋」になることを選んだわけではなかったからだ。14歳のとき、リオネルは父にパン屋になることを強制されたのだった。アポロニアの記憶によれば「父は、自分の経験とは逆に、わたしが自分がやりたいことを自由に選ぶことを望んでいました」。というわけで、彼女は大学入学資格(自然科学)を獲得し、ハーバード大学の入学試験に合格した。これは、彼女のもう一つの「夢」だった。そして、2003年9月に入学することになっていた。しかし、そのあいだに、両親が死去してしまった。かくして彼女は同社のトップになったが、だからといって大学で学ぶ計画をあきらめるつもりはなかった。授業や飛行機や電子メールや製粉業者への発注や…ついでに彼女の年齢の少女にとっての関心たる「映画、レストラン、ディスコテーク」や、とにかくそういったものをどうにかやっつけなければならないことは、もちろん覚悟のうえだった。ただし「ボーイフレンドはいない」そうだが。
ポワラーヌのトップに就任して以来、この相続人は革命をおこさないように気をつけてきた。彼女の父は「レトロ・イノベーション」を提唱していた。これは、近代化の良いところは取入れつつも、伝統の最善の部分は維持しようという概念である。彼女の信念は、といえば、それは家族の遺産をゆっくりと維持することだ。だからといって、彼女に計画や信念がないというわけではない。そのうちアメリカ合衆国に店を開くことは否定しないし、フランチャイズ・システムをはじめることにはもうちょっと乗り気だ。ただし、彼女は急いでいない。現在までに彼女が考えついたことといえば、包み紙をリサイクル品にかえたことと、「胡椒風味の」食パンを開発したこと(まだ試作段階だが)くらいだろうか。ここ数年アポロニア・ポワラーヌが専念してきたのは、成長し、経験不足にもかかわらず店を経営する能力があることを示すことだったのである。
ボストン近郊ケンブリッジティーンエージャーの顔をした経営者は、いともやすやすと学生になる。もちろん、彼女の家族企業の販売促進活動だって忘れない…毎週、フェデラル・エクスプレスが、彼女と彼女の友人のためにポワラーヌ製パン3斤を届ける。パンケーキの国でポワラーヌ姓を名乗る以上、ほかに方法はないだろう(フレデリック・ポテ)

かっこいい写真(パン焼き釜の前でパン焼き棒を担いでいる)つき。いいなあ、ポワラーヌ&ハーバード・ビジネス・スクールか。