『奇妙な敗北』

マルク・ブロック『奇妙な敗北』(平野千果子訳、岩波書店、2007、原著1957)

(1)いわずと知れた著名な歴史家にして、自らも第2次世界大戦と対独抵抗運動に参加したマルク・ブロックが、緒戦におけるフランスの敗北の原因を探る書の新訳。彼によれば、この原因は官僚主義と知性不足(オプスキュランティスム)に求められる。要するに「知は力であり、力は知である」ということなのだろう。

(2)この本を読んでつよく印象付けられるのは、本筋からは大幅に外れるが、なによりもまず、ブロックは熱烈な共和主義者だったということだ。フランスにおける「共和主義」は、どうにも日本人には理解しがたいもののように(少なくともぼくには)感じられる。いうまでもなく、それは単なる政体にかかわる一つの立場ではなく、社会そのもののありようをめぐる「心持ち」とでも呼ぶべきものである。樋口陽一さんや三浦信孝さんなど、これまでもすぐれたフランス・ウオッチャーたちがフランスの「共和主義」について論じてきたし、それらはかなりの程度説得的だと思うが、たとえば今次のフランス大統領選挙で中道派の候補者フランソワ・バイルー(フランス民主連合)がみずからを「共和主義者」と規定するのを聞くとき、「うーむ、わからん」という感は否めないだろう……「あなたは左派ですか、右派ですか」と質問されて「わたしはどちらでもなく共和主義者です」と応えるんだからなあ。

(3)今月上旬フランスに滞在していたとき、メディアの最大の話題はいうまでもなく大統領選挙であり、したがって、ぼくも候補者たちのインタビュー番組をテレビでずいぶん見た。素人なりの印象でいうと、二大候補者であるセゴレヌ・ロワイヤル(社会党)とニコラ・サルコジ(民衆運動連合)は、どちらもその器でない。フランス語には「国政を委ねられる政治家」を意味する「オム・デタ(homme d'etat)」という表現があるが、主要候補者のなかでもっとも「オム・デタ」の雰囲気を漂わせていたのはバイルーだった……かつて文部大臣時代、学校制度改革に失敗して空前の大規模デモをひきおこしたというのに、である。実際、彼の支持率は伸びつづけており、昨日発表された世論調査では20パーセントに至らんとしている(ちなみにサルコジは29パーセント、ロワイヤルが25.5パーセント)。

(4)ただし、彼の政策をどう理解すればよいか、これがよくわからない。
今回ドゴール主義派の流れを汲むサルコジは経済政策について大きくリベラリズムに舵を切り、ロワイヤルとの対立軸がみえやすくなった。経済の領域と政治社会の領域について、リベラリズムを支持するか否かを規準にとって考えてみよう。大雑把にいえば、経済の領域におけるリベラリズムとは自由放任主義であり、非リベラリズムは国家介入主義である。政治社会の領域におけるリベラリズムとは個人主義であり、非リベラリズムパターナリズムである。シャルル・ドゴールから現大統領ジャック・シラクに至るドゴール主義派は、どちらのリベラリズムにも是々非々だった。つまり「適度の国家介入主義&適度のパターナリズム」だったわけである。これに対して、サルコジは伝統的ドゴール主義を批判し、いわば「自由放任主義パターナリズム」という政策パッケージを打ちだした(フランス版「ネオコンネオリベ」路線ですな、これは)。それではロワイヤルは、といえば、当然ながらこちらは「国家介入主義&個人主義」という現代風左翼路線である。サルコジもロワイヤルも、2つの領域におけるリベラリズムの採否という点からみるとねじれているが、正面から相対立しているので、選挙の構図はすっきりしていてわかりやすい……ような気がする。
それではバイルーはどんなスタンスをとっているか。彼が議長をつとめるフランス民主連合はヴァレリー・ジスカールデスタンの流れを汲むが、元大統領ジスカールは「自由放任主義個人主義」という純粋型リベラリズムをフランスに導入しようとし、失敗した。ちなみに、ジスカールの対極にある「国家介入主義&パターナリズム」という純粋型の非リベラリズムに妥当するのはだれか、といえば、それは昔のフランス共産党だろうか。というわけで、ジスカールの失敗から教訓を得てか(他にも色々と理由はあるが、それは措いておいて)バイルーは左派でも右派でもない第3の道として「適度の国家介入主義&適度のパターナリズム」をうちだし、これを「共和主義」と称しているわけだが、これって伝統的ドゴール主義と同じもんじゃないのか。
というわけで、問題は共和主義と、もひとつおまけにドゴール主義なのである……しかし、ずいぶん話がずれてしまった。