企画巻頭言ドラフト・備忘録

定評あるフランス歴史学史の書フランソワ・ドッス『破砕せる歴史学』(Francois Dosse, Histoire en miette, Paris : La Decouverte, 1997, first edition, 1987)をひもとく機会があった。思想史学者であるドッスは、同書のなかで、1929年に登場した歴史学専門誌『アナール』に結集し、一門をなすことになった歴史学者たち、通称「アナール派」について、同書初版が刊行された時点である1987年までのあゆみを描いている。『アナール』を創刊したリュシアン・フェーヴルとマルク・ブロックがなにを目指していたか、彼らのあとを継いだフェルナン・ブローデルがいかに学界政治を勝ちぬいていったか、ブローデルに続く通称「第3世代」の歴史学者たちの関心がなにゆえ拡散し、したがって「破砕せる歴史学」が実現することになったか……といったテーマが、そこでは詳細に論じられている。
もっとも、ぼくにとって興味深かったのは、同書の内容そのものではない。同書で論じられ、あるいは指摘されている点の、そのほとんどが、すでに既知のものである、ということだった。こういうと「フランス社会経済史学を(一応)専攻しているのだから、そりゃ当たり前だろーに」というリプライが来るかもしれないが、ポイントはそこにはない。「すでに既知である」という言は、単にぼくだけでなく、日本の読書界総体にもあてはまる。アナール派を中心とする現代のフランス歴史学の動向は、かなりの細部に至るまで、翻訳あるいは日本人の手になる書籍や論文というかたちで日本に紹介され、つまりは日本語で読めるようになっているのである……すくなくともドッスの書がカバーする1980年代までの動向については。
ちなみに、このような事態が生じるにあたり、最大の功績者は二宮宏之だった、という点については、大方の意見は一致するだろう。『全体をみる眼と歴史家たち』、『歴史学再考』、そして『マルク・ブロックを読む』といった著作を発表し、あるいはフランス歴史学の代表的な業績を精力的に翻訳することをつうじて、彼はフランス歴史学界あるいは歴史学界にとどまらない広範な読書界を対象に、現代フランス歴史学のエッセンスを伝達しつづけた。
ただし、日本におけるフランス歴史学の動向の紹介という現象には、先述したとおり「1980年代までの動向については」という限定がつく。そして、この1980年代末とは、世界ではベルリンの壁が崩壊し、フランスでは革命が二百周年を迎え、そして日本ではバブルが崩壊して長期不況が始まった時代だった。
ここでフランス歴史学界に眼を転じると、これまた1980年代末に大きな転換が生じていることがわかる。1988年、『アナール』編集委員会は「歴史と社会科学・批判的転回?」というマニフェストを発表し、歴史学はかわらなければならないことを訴えたのである。ちなみに、このマニフェストはいちはやく(これまた)二宮によって邦訳され、日本の読書界の知るところとなったが、フランス歴史学の中枢に位置するアナール派がかくなる行動に出たことの背景には、歴史学の現状に対する危機感があった。
それでは、彼らの危機感とはなにか。その後フランス歴史学はいかなる方向に進んだか。そこではいかなる成果がうみだされてきたか。ぼくら日本の読書界は、そこからなにかを学べるか/なにを学ぶべきか。本連続特集企画は、こういった問題関心に基づいている。
【続く……かもしれない】