フランス滞在17日目

9月2日(火)
第二帝制期イル・エ・ヴィレヌ県の政治史に関心を持つものなら必読といわれている、ある博士論文(1971年)がある。今回の出張でADIVにコピーが所蔵されたことを知り、今日はじめて目にすることが出来た。全文タイプ打ち、5巻全1500ページ強という、いかにもクラシカルなフランス型博士論文である。この論文の著者は、1970年代初頭にいくつかの論文を発表し、1973年に小著を刊行したのち、ぱたっと音沙汰がなくなった歴史学者である。一体どうしたのだろうか……と疑問に思っていたが、今回そのわけがわかった。
彼は、ある県で、県内随一の名門高校の常勤教員として歴史を教えながら、やがては大学教員ポストを得ることを夢見つつ博士論文を準備していた。ここまでは、なんの問題もなかった。近年までのフランスでは、名門高校の常勤教員ポストというのは、高大間にこえがたい(誇張あり)壁がある日本では考えられないことかもしれないが、大学教員ポストの近道である。典型的なキャリア戦略とは、アグレガシオン(agregation、中高等教育教授資格)を取得し、なるべく良い高校に就職し、たいていはその高校がある地域の歴史に関する博士論文を準備し、博士号を取得したあかつきには晴れて大学に戻る、というものだった。
問題は、ある年、彼のクラスに、彼の母校でもある地元有力大学の文学部歴史学科の有力教授(フランスでは「パトロン」とよぶ)2人の息子が入ってきたことから始まった。彼は、どうも2人の若者とうまく行かなかったらしい。そしてどうやらそのせいもあってか、博士号取得後も彼に同大学から声がかかることはなかった。さらに、高校教員あこがれのポストであるカーニュ(khagne、グランゼコール準備学級)を担当するべきキャリアに達した際、選ばれたのは、彼ではなく、彼よりも年下の歴史学者だった。かくして失意の彼は他県への転出を願いで、パリのとある高校に転出していった。その後彼の手になる論文が出ていないことからして、彼は筆を折ったのだろう。
件の2人のパトロンとは、ともにフランス史研究者であればだれでも名前を知っており、また主著の邦訳もある大歴史学者である。彼らの息子2人もまた、ともに歴史学者の道を進み、そのうちのひとりはこれまた主著が邦訳されるにいたっている。さらにまた、彼にかわってカーニュ担当者に選ばれた若き歴史学者は、これをステップに、30才で件の大学の文学部歴史学科准教授に招聘され、さらに45才にして同大学の学長に抜擢されることになる。
ひとの人生とはわからないものだ……などと物思いにふけりながら、博士論文のページを繰る一日。