【3/25】「疑似インテリゲンチャ」またはハンパな全能感の哀しみ。

勤務先(部局)の安否確認が、ようやく終わる。いろいろ思うところはあるが、終わったことを喜びたい。


さて、先日の「タイミングの大切さについて」は、かなーりキツイ(口の悪さで知られている某・労働政策研究・研修機構統括研究員さんに「いささか辛辣な」と評されてしまった)書き方になってしまい(やっぱクリティカルなときにはアドレナリンが放出されて攻撃的になるんだろうか)、どんな反応が来るかドキドキワクワクしていたが、わりと好意的に評されてしまったようで、拍子抜けしている。


そんな中で、数少ない批判(というほどの長さではないが)としてmythrimさんなる方のついーとがある。そこにいわく

自分が住んでるところを中心にしか考えられないのか、この人は。

だそうだ。この言葉が批判的なトーンであることは明らかだが、これが拙文の批判になっているか否か、ちょっと考えてみよう。mythrimさんは、ついったの内容から推測するに福島在住の大学教員で、その意味では現在のぼくより大変なポジション(福島市放射線量の高さは、不思議だ)にいらっしゃるわけだが、この短いコメントが、ありていに言ってなんの批判にもなっていないという事実は驚くべきことである(ついーとにそこまで求めるな、という批判はナシ。公共空間に向けて発した言説は、山こえ谷こえ公共物化していくのである)。


某某ネットワークの提言が戦時・戦後にはマイナスであるというぼくの判断を批判するのであれば、

  • べつのところでは、同ネットワークが懸念している事態が生じている。
  • 理論的・統計的・あるいは歴史的なツールをもちいて分析検討すると、この手の提言は、一刻も早くなされるべきことがわかる。

の、どちらかを示す必要がある。このうち前者は、別の現場の事例を示すわけだから、いわば「虫の目」スタンスといってよいだろう。これに対して後者は、個々の現場の事例を一段高いところから俯瞰し、さまざまな手法を利用し、根拠を明示して秩序立てるわけだから、いわば「鳥の目」スタンスといってよいだろう。


ぼくは、昨日も書いたが、とりあえず現場にいないヘタレ人文系インテリがなすべきことのひとつは、まさにこの後者のスタンス、つまり「鳥の目」をもちいて、そこから将来に向けた提言をすることにある、と思っている(ちなみに、いうまでもないことだが、そうしなければならない、象牙の塔に籠ってはならない、などと考えているわけではない。粛々と自分の研究を進めることもまた、一つの認められるべき選択であると思っている)。さらにいえば、この「鳥の目」は、最近は「上から目線」として批判忌避される傾向にあるが、しかしそれは間違いである。ヘタレ人文系インテリから「鳥の目」を奪ったら、いったい何が残るというのか・・・せいぜいが「避難所の受付」(=ぼく)である。


問題は、そんなところではなく「十分に高く飛んでいるか」にある。ヘタレ人文系を含めてインテリは、十分に、そして可能な限り高く飛ばなければならない(自分のことは棚に上げて、よく言うよ、自分)。


そのうえでmythrimさんのコメント「自分が住んでるところを中心にしか考えられないのか」をみると、どちらのスタンスをとっているのか、いまいち不明である。もしも「虫の目」であれば、福島or別の被災地で震災後に性的少数者迫害が生じていなければならないが、ぼくは、そんな事態は寡聞にして知らない。もちろん、これは、ぼくの無知のなせるわざかもしれないが、いちおう新聞は読み、ラジオは聞いてるので、そんなことはなかったと考えても許されるだろう。それじゃ「鳥の目」か、といえば、批判の根拠が提示されていない(ついーとは140字までだっけ? でもちょっとは書けるでっしゃろ)ので、そうともいいがたい。あえてどちらのスタンスか、といえば、コメントにある「中心に」というタームからして、「鳥の目」スタンスではないだろうか。このコメントにただよう、そこはかとない「全能感」からも、そんな気がする。しかし、先述したように、ここで用いられている「鳥の目」スタンスは不十分なものであり、したがってその「全能感」も、所詮は哀しき「ハンパな全能感」にとどまっている。そして、


ハンパな全能感ほど、人々をいらだたせるものはない。


かくのごときハンパな全能感を感じさせる人々を、丸山眞男は「疑似インテリゲンチャ」とよんだのではなかったか。そして、こういった人々が織りなす言説アリーナを、佐藤学は「飲み屋談義」とよんだのではなかったか。

ヘタレ人文系インテリよ、高く飛べ(「おーっ」というリプライが聞こえる・・・空耳か?)