【4/1】ア・ショート・ライフ・ストーリー

まるでエイプリル・フールのような話だが、新年度が始まった、らしい。信じられん(エイプリル・フールなので、この注釈も含めて今日の文章はフィクションです・・・なんたるクレタ人のパラドクス)。


どこにでもある、平凡な、でも平和な家庭だった。海沿いの町に立つ二階建ての家。エンジニアで仕事一筋、無口な父親。専業主婦で、結婚して線路をはさんだ反対側に住んでいる妹(つまり叔母さん)と仲が良かった母親。父の背中をみて育ったせいか技術者を志望して大学に進学した、マジメでおとなしめの兄。そして、家族中の愛情を一身に浴びて育った、チャキチャキ元気で努力家で、そして家族思いの娘、つまり、きみだ。
小学校のとき、父親の転勤でしばらくアメリカの片田舎に住んだことがある。日本人学校がなかったので現地の小学校に転入したが、カルチャーショックや言葉の壁で、どうもうまく溶け込めなかった。学校に行くのがいやになり、しばらく不登校になった。転勤が終わって元の家に戻り、元の小学校に通いはじめた。アメリカの苦い経験の反動か、学校が楽しくてしょうがなかった。一日も休みたくなかったし、一日も休まなかった。中学校に進学し、部活動はブラバンを選んだ。身長が高かったので、なんとチューバとユーフォニウムを任された。任されたらイヤとはいえないので、懸命に練習した。練習すると上手くなり、上手くなると楽しくなった。中学校生活そのものも楽しく、気がついたら皆勤賞で卒業してしまった。高校は、隣町の女子高だった。入学してから気がついたのだが、この学校には吹奏楽部がなかった。マズった!!、と思ったが、あとの祭り。しかたなく「ま、同じ音楽だから、いっか」ということでギター部に入った。それでも、高校生活も楽しかった。楽しくて、また気がついたら皆勤賞で卒業してしまった。
一浪はしたが、隣町にある大学に入学した。大学に入ったら、今度こそブラバンにしようと思っていたので、即入部。ただし自宅通学だから、今度はチューバやユーフォニウムじゃなくて持ち運びできるもの、うーん・・・と悩んで、結局ちいさな金管楽器にした。自宅から駅までバス、そこから電車で隣町、さらにバスで大学。ブラバンの活動が本格化すると、時間が惜しくなり、バスをやめて自転車にした。これなら終バスを気にせずに練習できるからだ。そんなわけで、自転車を2台用意し、自転車・電車・自転車という、まるで体育会系の通学パターンになった。なかなか大変だったが、でも大学生活は楽しかった。「楽しい」が、口癖だった。ものすごく頭がよさそうな同級生、いままで「遠い国」だった国からの留学生、関西弁や四国弁が混ざる友だち・・・色々な地方の、さらには色々な国の学生と会うことができた。授業だって、これまで知らなかったことがわかってきて、楽しかった。もちろんブラバンが最高だけど。
自分の楽器がほしい!!、と思いはじめた。自宅近くの塾でバイトをして、お金を貯めることにした。半年以上かけて、ようやく思い通りの楽器を買った。嬉しかった。肌身離さず暮らした。成人式の写真を撮るのに、振袖に楽器をもった姿で写真館に登場し、いつもかわいがってくれる叔母さんに「あんたねえ、さすがにそれはないんじゃないの」とあきれられた。


そして、2011年3月11日。その日、きみは自宅2階の自室で勉強していたという。「みんな頭がいいから、私は勉強しなくちゃいけないんだ」と、いつも言っていたとおりに。大地が揺れ、町のあちこちから「津波が来るぞ!! 逃げろっ」という声が聞こえてきた。きみは、大事にしていた楽器をつかみ、母親と兄とともに避難所に走った。しかし、津波は避難所の方向からやってきた。「どこか高いところに!!」というわけで、3人で近くの歩道橋をめざした。しかし、どうにか歩道橋にたどり着いた兄は、きみの姿をみつけられなかった。そして、母親の姿も。
それから2週間。あの日仕事にいっていて難を逃れた父親と、兄のもとに、きみの身元が確認されたという連絡が来た。確認の決め手は、楽器だった。


「人は、だれかが覚えている限り、生きている」という台詞がある。しばらくは大丈夫。ぼくも、そして多分きみと時間を共有したたくさんの人々も、きみのことは覚えているから。