お蔵出し

回顧モードが続く今日この頃。
今回は、ちょっと昔のことになるが、昨秋、遅塚忠躬先生の一周忌を期して開催された「偲ぶ会」で読んだペーパーのお蔵出しをしておこう。
この会、「偲ぶ会」とは名ばかりで、第一部は、松浦義弘+長谷川貴彦+岸本美緒+三谷太一郎の諸氏という豪華ラインナップ&ぼく(おまけ?)がトークをし、延々と議論をするという、一大シンポジウムだった。第二部に入ってようやく普通の「偲ぶ会」らしき懇親会となり、ホッとしたことは、あえて言うまでもないだろう。
ちなみに、なんで偲ぶ会のトークを思い出したかというと、この週末に岸本さんの近著『明清史論考』(上下巻、研文書院、2012)を読んだからなのだった。この二巻本をホントに面白く読んだぼくは、じつは岸本ファンなのである。


それにしても長谷川くんと岸本さん、活躍しすぎ。すこしセーブせんと。困るで、ホンマ。

人間学(ヒューマニティーズ)としての歴史学

小田中直樹
2011年10月16日at青山学院大学

[0]
初夏だったでしょうか「偲ぶ会を開くから、何かしゃべれ」という連絡が来ました。ぼくは、今年の『日仏歴史学会会報』にも書きましたが、先生には大恩があるので、「イエス」という選択肢しかなかったんですが、後になって他のスピーカーのキャスティングがわかって「しまった」と思いました。当初は「先生からは色々なことを直接間接に教えていただいたので、何かはしゃべれるだろう」と軽く考えていたんですが、言語論的転回をはじめとする歴史学方法論については長谷川さんが話す(か、話さないとしても、ぼくより詳しい)だろうし、フランス革命史については松浦さんの専門守備範囲だし、先生が一貫して関心を持っておられた日仏比較については三谷さんが話す危険があるし、先生の最初の研究領域である社会経済史については岸本さんが(経済学部に属する)ぼくよりもはるかに知悉しているし・・・というわけで、ぼくには話せることが残っていないということに、ようやくその時点で気づいたのでした。しかし、時すでに遅し。
困ってしまって一時ウンウンうなっていたんですが、どこかで、それも先生と関連して、同じような光景をみたことを思い出しました。今日はそのことを含め、ぼくが先生について見聞きした3つのエピソードから始めて、先生の歴史観、すなわち「歴史学の意味」について、僭越ながら忖度してみたいと思います。


[1] 
先生を偲ぶ会がここ青山学院大で開催されたことは、ぼくにとっては偶然とは思えない意味を持っています。1987年の秋のことですが、ここで、先生の著書『ロベスピエールとドリヴィエ』の大書評会が開催されたからです。主催は東北大学西洋史研究会。この研究会の大会は、一日つぶして一冊の本を書評するという恐るべきシンポジウムを決行することで知られています。先生は1986年にデビュー作(!!)となる同著を刊行され、その完成度の高さとスケールの大きさで、ただちに大きな話題を呼びました。翌年の同研究会大会シンポジウムがこの本にあてられたのは、いわば当然の理だったといえるでしょう。コメンテーターとしては、イギリス史から岡田与好先生(ぼくの数少ない師匠なので「先生」を付けさせていただきます)、フランス史から今は亡き千葉治男さん、そしてロシア史から伊藤昌太さんの3人だったと記憶しています。午前中に3本のコメントと先生のリプライ、午後はノンストップデスマッチの討論という、いま思い出してもゾッとするような高密度の一日でした。
このシンポジウムがゾッとするほど深くぼくの脳裏に刻込まれていることには理由があります。当時ぼくは西洋経済史を専攻する大学院2年生でしたが、専攻を共にする院生たちが集まり、すでに退職されていた岡田先生のお宅で月例研究会をおこなっていました。大抵はぼくらが自分の研究を報告し、先生を含めて議論するというかたちでしたが、この年の秋は違いました。岡田先生はシンポジウムのコメンテーターを依頼されたことを重く受止めたため、研究会は『ロベスピエールとドリヴィエ』を読みあわせ、岡田先生が自分のコメント案を報告する、という会が続いたのです。
そして、当日の朝。ここ青学におかれた会場に現れた岡田先生の顔は、疲労の色濃いものでした。いぶかるぼくらに対して、先生は「昨晩は、高橋先生のことが思い出されて、一睡もできなかった」とおっしゃいました。高橋先生とは、いうまでもなく、岡田先生と遅塚先生共通の師である高橋幸八郎のことです。
シンポジウムでは、師を共にするお二人の議論がぶつかりあいました。テーマは「農民革命」でした。皆さんご存知かと思いますが、この概念は、ジョルジュ・ルフェーヴルが提唱し、高橋が換骨奪胎したかたちで日本に導入し人口に膾炙させたものです。両者の違いは、ものすごく大雑把にいって「農民革命が資本主義の発展、ひいては〈歴史の進歩〉に貢献したか否か」にあります。ルフェーヴルの答は「ノー」であり、高橋の答は「イエス」でした。そして、遅塚先生の著書は、師をこえて、むしろルフェーヴルの立場を継受するものでした。これに対して、岡田先生は(高橋になりかわったかのように)高橋の農民革命論の立場から遅塚先生のアーギュメントを激しく批判し、遅塚先生もまた一歩も引かずに応酬しました。「資本主義の発達に貢献しない農民革命なぞ、貧農運動とでも呼べばよいものではないのか」と言い放った岡田先生に対して、遅塚先生が「貧農運動と呼んでもよいと思います」と答えたシーンは、今でも鮮明に覚えています。その深く静かな激しさは「歴史学は科学である」ことを、一介の大学院生に深く実感させるものでした。「ゾッとする」という感覚を、おわかりいただけるでしょうか。
それでは、なぜ遅塚先生は高橋ではなくルフェーヴルの農民革命論を採用したのでしょうか。ここでいう「農民革命」は分析概念ですから、どちらを採用しても間違いではないはずなのに。


[2] 
1989年は、先生にとってエポックメイキングな年だったのではないかと思います。いうまでもなく、フランス革命二百周年であり、またベルリンの壁が崩壊したからです。僕は、ベルリンの壁が崩壊したというニュースを初の資料調査で滞在していたパリの安宿で聞きましたが、ラジオしかなかったので、じつはなにがおこっているのかわかりませんでした。事態を把握したのは帰国してからのことです。
ご存知のとおりフランス革命二百周年については、そもそも「いつなのか」をめぐって議論がありました。89年(人権宣言、封建制廃止)はオッケーだとして、91年(憲法制定)、そしてとりわけ93年は祝うに値するか、ということです。これは恐怖政治をどう評価するかという問題に直結します。フランス政府は、この頭の痛い問題を棚上げするべく、89年だけを祝うことにしました。
日本でも、二百周年記念国際シンポジウムが京都と東京で開催されました。リン・ハントやコリン・ルーカス、それに韓国や中国からも革命史の専門家を招いた大規模なものでした。そういえばルーカスの講演ドラフトは、「3日で訳してください」という遅塚先生のムチャな要求がぼくに下りました。辞書を引き引きどうにか訳したことを、懐かしく思い出します。シンポジウムは、国民国家論をめぐる議論が中心になったと思いますが、平和裏に終わりました。
その数ヵ月後にベルリンの壁が崩壊しました。先生はアクチュアルなことにも関心をお持ちでしたが、なによりもまず、この事態がフランス革命の理解をどう変えるかを注目しておられました。そして、それから数年後でしょうか「最近、クレマンソーの言葉が逆の意味で復活してねえ」とつぶやかれたことがあります。ジョルジュ・クレマンソーは「フランス革命は〈ひとつの(en bloc)〉出来事である」と喝破し、89年と93年をつなげ、そしてともに肯定的に評価しました。先に述べたとおり、これに対して、二百周年に際してフランス政府は両者を切断し、それによって前者を救出しました。ところが、先生によれば、ポスト・ベルリンの壁の時代になって、再び両者を結びつける議論が登場したというのです。それも、かつてとは逆、すなわち93年のみならず89年も批判するという意図のもとに。さらに、先生によれば、批判の矛先は「89年の思想的先駆者」たるルソーにまで及んでいる。「ルソー、89年、91年、ロシア革命スターリン主義(そしてベルリンの壁の崩壊)」という、これは、近年ではおなじみの全体主義の起源(と終焉)論です。
このアーギュメントは、先生にとっては衝撃的だったようです。それは、先生がベルリンの壁の崩壊と社会主義の終焉を深刻に受止め、歴史学者として、社会主義的なるものの起源を再考する必要性を感じていたからだと思います。そして、ルソーまでが否定されるのであれば、そして、それにもかかわらず「歴史の進歩」を擁護するのであれば、わたしたちは別の起源を探さなければなりません。ぼくのみるところ先生は戦後歴史学の最良の部分を継受し、「歴史の進歩」を信じる近代主義者でしたから、この作業は先生にとって不可避のものだったかもしれません。
それでは、どこまで遡るべきか。ちなみに、一部の論者によればプラトン全体主義者らしいので、彼らがいうとおり古典古代ですらダメだとすると、この起源探しは大事になりそうだし、すくなくとも「時期」ではなくて「人物」の単位でなされなければならないでしょう。つまり、だれに遡るべきか、ということです。


[3]
1990年代に入り、先生は突如として「アンチ言語論的転回」派の最右翼として登場されました。歴史学における言語論的転回を主張するアーギュメントを一刀両断した「思想の言葉」が1994年、議論を全面展開された『現代史研究』論文がその2年後です。
歴史学方法論にかかわる議論については長谷川さんのほうがはるかに詳しいのですが、とりあえず必要なことだけ述べると、先生は「真実」と資料に残る「事実」を対置うえで、歴史学者がなしうるのは事実を明らかにすることにとどまり、真実を叙述するのは文学者(ここでマルセル・プルーストが出てくるわけですが)の仕事であり、彼らに任せるべき営為である、と主張されました。これは認識論的主観主義の立場と呼んでよいでしょう。そして、先生の立場からすれば、たとえば実証的な歴史研究において、諸アクターの言語が果たした機能を追求することに意味がないわけではないが、どのみち真実はぼくらの手の届かないところにあるのだから、言語が独自の機能を果たそうが果たすまいが、こと歴史学方法論の次元では違いはないと断言なさったわけです。
ぼくは、個人的には、先生のアーギュメントに大きく影響されつつも、歴史学を「事実をめぐるゲーム」とみなす場合、それが「基準なきゲーム」を意味するのであれば、諸説の優劣をいかに決定すればよいか(これは科学の実践において、決定的に大きな意味を持ちます)という問題が回答不能になることに不満を感じています。もうひとつ、先生の「真実/事実」の二分法がいまいちわかりにくく、クリアでない、という印象をもっていますが、この話をするには大著『史学概論』を全面的に論じなければならないし、それは長谷川さんの仕事なので、ここでとどめておきます。
ぼくは2002年と2003年に歴史学を論じる小著を続けて刊行しましたが、ある日、遅塚先生から長文の手紙をいただきました。いつもの太く力のこもった万年筆の筆跡で、便箋で何枚あったでしょうか。実物は、研究室の引越しなどをしているうちに紛失してしまいましたが、先日そのドラフト(!!)のデータを頂きました。これは、ぼくにとっての宝物のひとつですが、そのなかで、先生は、「真実/事実」の二分法が徹底されていないぼくの立場を批判されつつ、再度ご自身の立場を明らかにされていました。
そのなかで、先生は、いわゆる定向進化論は「個人の自由」を抑圧するとして、歴史観として否定されていました。そして、定向進化論の祖としてヘーゲルの名を挙げ、歴史学者は「歴史における人間の自由、という領域」を考慮しなければならないこと、そのためにはヘーゲルを弁証しなければならないこと、そしてそのためにはカントに帰ることが必要であると考え、カントを読み直していることを記しておられました。先生にとって、ベルリンの壁の崩壊の教訓は、歴史が人間の自由のうえに立つという発想は危険であるということに求められるものであり、人間が歴史を作るということを再確認するものだったのでしょう。そして、そのために有益と判断されたのが、カントのアーギュメントである、というわけです。
ぼくは、先生の手紙を拝読し、いま述べたようなことをつらつらと考えることにより、先生の営為を貫くものがみえてくるように感じました。すなわち「人間の自由==>カント==>認識論的主観主義==>ルフェーヴル型農民革命論」というロジックです(最後のほうは、ちょっとこじつけかもしれません)。


[4]
先生にとって、歴史を学び研究することは、人間の自由が実現される条件を求める営為だったのではないでしょうか。過去において、いかなる条件のもとであれば、人間は自由を享受しえたか、という問いに対する回答を探す、長い旅を続ける意志。そして、この回答は、現在や未来の人間に対しても意義を持つものであるはずだ、という確信――そういったものが、先生が書かれる文章からは感じ取れます。
言語論的転回を批判するに際して、先生が依拠していたのは、カントの所説でした。すなわち、カントは(ぼくは哲学はまったくの素人なので、この要約が正しいか否かは保証できませんが)「もの自体」とぼくらが目にする現実を区別し、前者の接近することは不可能であると説きました。先生は、この枠組みを援用して「真実/事実」二分法を提示し、言語論的転回派を批判したわけです。
それでは、なぜカントなのか。それは、真実あるいは「もの自体」を絶対視し、歴史のプロセスを物象化し、人間を歴史に仕える「自由なき存在」に貶めてしまう歴史観すなわちヘーゲルからマルクスを経て旧社会主義諸国で人口に膾炙していた定向進化論を中和し、人間の自由を(とりわけ歴史学に)取り戻すためでした。
それでは、なぜルフェーヴル農民革命論なのか。それは、すべて歴史は予定調和的に「歴史の進歩」に向かうなどというものではないという先生の歴史観のなせる業だったのではないか、と、ぼくは、なんの根拠もないのに思います。フランス革命期の農民は、資本主義の展開に反対し、その意味では(少なくともこの時期においては)歴史の進歩に抵抗する存在となりました。しかしながら、この選択は、彼らの意思の産物であり、定向進化論的な歴史観に頻出する「歴史の法則」など人間の自由をこえて存在するなにものかに全面的に規定されてなされたものではありません。このような選択をする自由もありうるのだ・・・ということです。
ただし、先生は(再言しますが)「歴史の進歩」を信じておられました。人間の自由と矛盾しないかたちで、また定向進化論などを安易に利用せずに、しかして歴史の進歩を語るには、いかにすればよいか。先生の文章がみせる明晰さとはうらはらに、あるいはその背景に、先生がときおり漏らされた言葉や先生の学問的遍歴からは「人間の自由」と「歴史の進歩」を両立させることの困難と、しかしこのアポリアに取り組むことの必要性を理解したものがもたざるをえないパッションが感じとれます。たとえば、なぜ先生はあれほどまでにブローデルの「構造」と「循環」の関係を整合的に理解することにこだわったのかという疑問は、先の点を考えると解けるように思います。
先生、とりわけ学問的キャリア初期の先生が定向進化論の典型である史的唯物論を受容していたか否かについては、ぼくには定かではありません。もっとも「遅れてきた旧制高校生」だった先生のことですから、古典の一環をなすマルクスなど社会主義思想の学習と理解は、ぼくなどとは比べ物にならないほどのレベルだったはずです。そして、そうであれば、かの『ブリュメール18日』の名言「人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分で勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、あたえられた、過去からうけついだ状況のもとでつくるのである」をご存知だったことでしょう。ぼくは、ここに「人間の自由」と「歴史の進歩」の止揚を見て取ります。自由な人間が歴史を進歩させ、進歩した歴史が人間の自由を規定する、というかたちで、両者は相互規定関係にある、ということです。この点について、ぜひ先生のお考えを伺いたかったのですが、それはかなわないこととなりました。
先生にとって、歴史学は人間の自由を追求する営みでした。そして、歴史もまた、人間の自由が追求される営みの積み重ねでした。先生にとって、歴史学は人間を理解するための科学、すなわち人間学(ヒューマニティーズ)だっのではないか――これが、今日ぼくが申上げたかったことです。