お蔵に入れる前に。

先日、宮城県高校教員研修に講師として呼ばれ、2時間ほどトークをしてきた。折角だからそのドラフトをあげようと思っていた・・・のだが、終了後、事務局から大略「けっこう好評だった」というメール。それだったら、9月の某社(仮に「東芝」としておこう)幹部候補生研修や某大(仮に「北大文学部」としておこう)集中講義に転用できそうなので、ネタバレ注意のためにしまっとくか・・・と、ヘンなところでモッタイナイ精神を発揮してしまうぼく。
せこいぞ、自分!
ちなみに、ブログで「某社」とか「某氏」とかいった「某」の字をみると、「某某いうくらいだったら、はじめから書かなきゃいいじゃん」と思ってしまうのは、ひとりぼくだけか?
脱線は措いておき、その代わりといってはナンだが、羽田正『新しい世界史へ』(岩波書店岩波新書、2011)レビューをあげておこう。小山哲さん(ポーランド史)を研究代表者とする科研費(正確には、文部科学省科学研究費補助金)プログラム「東アジアの西洋史学」が今年から始まり、ぼくも研究分担者として参加することになったのだが、来たる7月21日のセミナーで、この話題作をとりあげることになり、トークの担当がまわってきた、という次第。そんなわけで今回は、お蔵出しどころか、お蔵入りすらしていない出来立てホヤホヤである。大体、まだトークしてないし。
いよっ、太っ腹!!
自分でヨイショするのは措いておき、このプログラム、他の参加者は、長谷川まゆ帆(フランス史)、長谷川貴彦(イギリス史)、佐々木博光(ドイツ史)、橋本伸也(ロシア史)の諸氏。しかし長谷川くんとは、別の科研費プログラム(テーマなんだっけ、角松くん?)でも一緒だし、もう一度いうが「キミ、仕事しすぎ」。


あらかじめ言っておくと、このレビュー、中身は30字以内で要約できる。

地球市民」は〈センス・オヴ・ワンダー〉フルな夢をみせるか。

おお、ジャスト30字・・・はよいとして、なにそれ?

羽田正『新しい世界史へ』(岩波書店岩波新書、2011)


小田中直樹
2012年7月21日at京都大学


[1]
本書は、「現代日本の歴史学が生み出す議論や語りには……現実を変える構想力や、未来を指し示す魅力が備わっているようには見えない」(本書p.5)という歴史学の現状に対する危機感から、「地球市民」という帰属意識を人々に与えるものとしての「地球社会の世界史」(p.8)をキーワードに、これまでの世界史の歴史をたどり(第1章)、そこに潜む問題点を摘出し(第2章)、そのうえで「地球市民の世界史」が備えるべき特徴を提示している(第3章、第4章)。
歴史学が危機にあることについては、たとえば日本やフランスでは、1980年代末ごろから、ゆるやかに歴史学者の共通認識になってきたように思われる。(1)このうち日本では、1980年代末から1990年代初頭にかけて、1980年代を席巻した「社会史」ブームが終わり、ベルリンの壁の解体を受けた「歴史の終わり」論が人口に膾炙するようになり、また1996年には「新しい歴史教科書をつくる会」が結成された。他方で、1989年版『学習指導要領』では高校世界史科が必修化されたが、これは、歴史学のプレゼンスの拡大を証すものではなく、歴史学とりわけ外国史学のプレゼンスの縮小に対する危機意識から生じたものとみなされるべきである。
もっとも、日本では、歴史学者が「歴史学の危機」について明示的な議論を展開することは、必ずしも多くなかった。それは、今回の危機が、なによりも「歴史に対する社会的関心の低下」すなわち歴史ばなれというかたちをとっているからである。実証的な歴史研究を生業とする多くの歴史学者にとって、主要なオーディエンスは同業者であり、「社会的関心」の存否は視野の外にある。危機に対して敏感に反応したのは、歴史学者の隣人についていえば、たとえば歴史教育を担う小中高の教員であり、あるいは歴史教育研究者である。(2)それは、彼(女)たちが歴史ばなれの問題に日々直面しているからにほかならない。さらにまた、一部の歴史学者は例外的に今回の「歴史学の危機」に正面からむきあおうとしているが、彼(女)たちがひろく歴史教育に関心をもち、小中高教員とのコミュニケーションを重視し、試行していることは、偶然ではない。(3)
このような状況のなかで、第一線の歴史学者が「歴史ばなれ」を特徴とする今次日本の「歴史学の危機」を真正面から取り上げ、それに対する包括的な解法を試論的に提示した点に、本書のオリジナリティがある。


[2]
まず、本書の内容を要約しておきたい。
世界は一つとなった今日において求められているのは「地球市民」意識の創出に貢献しうる「地球社会の世界史」である(p.8)が、現在の日本の歴史学はこの課題に応えられていない(序章)。
既存の歴史学では、世界史は「国民国家日本を確立させるための国史」と「モデルとしての西洋の歴史」と「日本が先頭に立って指導すべき東洋の歴史」の合計(p.29)にすぎない(第1章)。
そこには、日本人の世界史にすぎない、自他の区別や差異を強調する、ヨーロッパ中心史観である、という特徴がある(p.90)が、これらは時代と合わなくなっており、「歴史ばなれ」をもたらしている(第2章)。
「地球社会の世界史」を構想するには「中心性の排除」と「関係性の発見」(p.102)という視点が必要であるが、両者については、すでに「グローバル・ヒストリー」、「環境史」、「モノの世界史」、あるいは「海域世界史」などの領域で重視されてきた(第3章)。
これら成果のうえに立った「地球社会の世界史」の方法として、次の3点が仮説的に提示できる。第1に、「ある時期の世界の人間集団を横に並べてその特徴を比較し、モデル化して相違点と共通点を指摘しながら全体像を把握することで、世界の見取り図を描く」ことである。第2に、これら世界の見取り図を「時系列史にこだわらない」で「現代世界の全体像やとその特徴と比較する」ことである。第3に、「世界中の人々が、モノや情報を通じて緊密につながり互いに影響を与えあっていた」という「横につなぐ歴史を意識する」(pp.166-7)ことである(第4章)。


[3]
以上の背景と内容をもった本書のメリットとしては、日本の歴史学の史学史・現在の特徴・問題点・潮流・今後の課題をコンパクトにまとめて提示していることや、実証主義的な歴史学者が今次の「歴史学の危機」に正面から取り組む意思を表明し、新しい世界史の見取り図を提示したことのほか、以下の2点が挙げられる。
第1に、歴史ばなれという、ともすれば「歴史学者には責任がない」と(歴史学者自身からは)みなされがちな事態を中核とする今次の「歴史学の危機」について、それを歴史学者の責任(あえていえば怠慢)によるものと断言し、歴史学の枠組みのなかで解法を検討し、試案ながらも提示したことである。現在の歴史ばなれについては、高校世界史科が必修化されたことをはじめ、日本学術会議が「歴史基礎」科目の新設を提言するなど、歴史を発信する側ではなく受信する側、とりわけ歴史教育の領域に原因と解法を求める傾向が顕著である。本書は、このような動向に対して、歴史学者が「地球社会の世界史」を提示できていないことが諸悪の根源にあると主張し、議論の枠組みを転換させている。
第2に、些細な点かもしれないが、これまたともすれば自明のものとみなされがちだった「ヨーロッパ」について、詳細な分析を加えていることである。すなわち、本書によれば、ぼくらは「概念」としてのヨーロッパと「地理的空間」としてのヨーロッパを混同する傾向にある。そのため「ヨーロッパ史」記述が包摂する地理的空間としてヨーロッパは、概念のとしてのヨーロッパ(モデル・ヨーロッパ)に適合するべく、時代によって融通無碍に変化してゆく(pp.82-5)。実体概念と整序概念を区別するべきであるということは、かねてよりいわれてきたことであるが、ことヨーロッパについては、前者は別のターム(西方ユーラシア)に言いかえ、後者は放棄するべきである、という本書の提言は、既存の議論をこえてラディカルかつ示唆的である。


[4]
もっとも本書に疑問・批判がないわけではない。ここでは、とりあえずそのうち3点を指摘しておきたい。
第1に、ホーリズムに傾斜する傾向にあることである。たしかに地球は一体化しつつあるが、だからといって、なにゆえぼくらは「地球市民」なるアイデンティティをもたなければならないのだろうか。前者は「存在」であるが後者は「当為」であり、有体にいってこの言説は古典的なカテゴリーミステイクをおかしている。もちろん地球が一体化しつつあるからには、ぼくらは地球環境問題など地球全体にかかわる問題に関心を持つべきだろうし、この課題に取組むに際して、もしかすると歴史学は役に立つかもしれない。しかしながら、その解が「世界市民」である必要はない。
第2に、コミュニケーションによるアイデンティティの可塑性・可変性を無視していることである。ぼくが「地球市民」なる概念がホーリズムをはらむことにこだわるのは、こういったホーリスティックな言説は、ともすれば「異質なアイデンティティをもつ他者のあいだのコミュニケーションにもとづく相互理解」の可能性と意義を軽視させ、さらにいえば、さまざまなアイデンティティは可塑的で可変的なものにすぎないということを忘れさせる危険をはらんでいるからである。これまで人文社会科学の様々な領域でつみかさねられてきたコミュニケーション研究やアイデンティティ論の成果が、それではすべて見失われてしまう。それでいいのだろうか。(4)
第3に、歴史における因果関係や比較の方法について十分な考察を加えることなく、歴史記述から時系列性を放逐しようとしていることである。本書は歴史記述から時系列性を排除することを主張するが、そこには時系列的な歴史記述が「中心史観」(p.115)をもたらすことに対する強い警戒感がある。しかし、時系列的な記述が歴史学において多用されてきたのは、歴史を因果関係の相で捉えようとする傾向が強かったからである。時系列的な歴史記述を否定するのであれば、歴史における因果関係に対する評価を明らかにしておく必要があるだろう。また、本書は「ある時期の世界の人間集団を横に並べてその特徴を比較し、モデル化して相違点と共通点を指摘しながら全体像を把握することで、世界の見取り図を描く」(前出)という方法を提案するが、周囲(時間は同じだからよいとして、すくなくとも空間)の諸条件が異なるものを比較し、さらに異同を検出しようとする際は、繊細な手続きが必要である。(5)しかし、本書からそういった配慮を読みとることは困難である。(6)


[5]
以下は、単なる読書感想文にして、根拠なき自説の開陳にすぎない。
歴史ばなれという問題に歴史学の領域で解法を出そうとした本書の意図をたかく評価しつつ、ぼくは本書にかなり批判的な評価を下すことになった。それは、おそらく「いま歴史学に求められていることはなにか」についての見解が、ぼくと本書で異なっているからだろう。具体的にいえば、「地球市民」意識を涵養する世界史を構想すれば、歴史学の「魅力」は高まるだろうか。ぼくの答えは「ノー」である。

ぼくの根拠なき見立てによれば、「地球市民」は、センス・オヴ・ワンダーにあふれた夢を与えうる概念ではないのだ。

それでは、日本社会は歴史学に対してなにを求めているのか。現在のぼくにこれといった答えがあるわけではないが、基本的に人間は「自分とはなにか」あるいは「自分はどこから来て、どこへ行くのか」といった問いを抱えている。そうだとすれば、歴史学には、これらの問いに答えるヒントを供給することが求められてきたし、今日においても求められているのではないだろうか。
この社会的(非学術的)要請に歴史学の領域でこたえることは可能だろうか。可能だとすれば、いかなる手段が必要にして有効だろうか。この問いは、すでに様々なかたちで考えられてきた。ぼくにいわせれば、その際のキーワードは「アイデンティティ」、「コミュニケーション」、そいて「因果関係」である。これらが手あかにまみれたものであり、また(部分的には)本書の批判対象であることを念頭において、一点だけ付言しておきたい。(7)


「いま、ここ」からの歴史記述を試みてはどうだろうか。


【脚注】
(1)フランスの状況については、ジェラール・ノワリエル『歴史学の「危機」』(小田中直樹訳、木鐸社、1997、原著1996)および、とくに『アナール』編集部「アピール:歴史と社会科学」(ジャック・ルゴフ他『歴史・文化・表象』、二宮宏之訳、岩波書店、1992、原文1988)を参照。ちなみに、その他の国についてどうだろうか?
(2)前者については小田中直樹『世界史の教室から』(山川出版社、2007)、後者については今野日出春『歴史学歴史教育の構図』(東京大学出版会、2008)を参照。
(3)その代表的な試みが、桃木至朗を代表とする大阪大学歴史教育研究会(http://www.geocities.jp/rekikyo/)である。
(4)もちろん本書も、アイデンティティの重層性という点を無視しているわけではない(pp.119-120など)。しかし、それは「日本人というアイデンティティは日本史の領域、世界史の領域では世界市民というアイデンティティ」という楽観的な分業論によって処理されてしまう。
(5)方法としての「比較」を理解するにあたってはジョン・スチュワート・ミルの論理学説が「マスト」らしいが、よくおぼえていない(すみません、すみません、すみません)。ミルの所説については、とりあえずシーダ・スコチポル編『歴史社会学の構想と戦略』(小田中直樹訳、木鐸社、1995、原著1984)第1章を参照。
(6)ちなみに「ある時期の世界の人間集団を横に並べてその特徴を比較し、モデル化して相違点と共通点を指摘しながら全体像を把握することで、世界の見取り図を描く」という方法は、すでに高校世界史Aの(近代以前をとりあつかう)前半に導入され、はっきりいって上手くいっていないように思われるが、どうだろうか。
(7)以下の文言をカタイ言葉でいえば「遡行的方法」ということになる。