叙述の力

去る水曜日、フランス革命について2000字程度で解説してほしい、という依頼が来た。フランス革命を原稿用紙5枚で要約するというのも荒業だが、世に「no try, no chance」ともいう(?)し、暑さ&二日酔い(東北福祉大学国見が丘キャンパスにあるピザ屋「ozio」の石釜焼ピザはおいしいが、ちょっと飲みすぎたよね、秋田さん&高倉さん)で働かない頭を無理やり働かせて試してみた。そして、その過程で「叙述の力」について、あらためて考えさせられることになった・・・というのは、ま、大げさか。
はじめに、時系列に沿って書いてみる。時系列的な叙述の代表格といえば教科書だが、ちょうどこのまえ高校教科書を書いたところだったので、文体模写をしている気分になった。

身分制社会から能力主義社会へ:フランス革命の軌跡


(1)身分制社会秩序の否定
 18世紀の欧米では、イギリスにおける産業革命の開始、北アメリカにおけるアメリカ合衆国の独立など、新しい社会秩序の誕生を予感させる出来事が相次いだ。そして、古い社会秩序が比較的強く残っていたフランスでは、これら出来事のインパクトは巨大な事件として具現化することになった。フランス革命である。
 当時のフランスには、第1(聖職者)・第2(貴族)・第3(平民)の3身分からなる身分制社会(アンシャン・レジーム)が存続していた。しかし、引続く戦争、イギリス産業革命に対抗するための産業振興、さらにアメリカ独立戦争に対する軍事的支援によって、国庫が破綻寸前になったため、国王ルイ16世は、それまで租税負担を免除されていた第1・第2身分を対象とする新税の導入を図った。これが革命の発端である。
 1789年、新税の是非を議論するべく全国三部会が開催されたが、第3身分代表はみずからの集会を「国民議会」と命名し、第1身分と第2身分の代表に合流をよびかけた。これを身分制社会に対する攻撃ととらえた国王は巻き返しをはかるが、パリの民衆は蜂起してバスティーユ監獄を襲撃することでこたえた。国民議会は、事態に対応するため改革を急ぎ、封建的特権の廃止を宣言した。さらに議会は「人権宣言」を採択し、自由・所有・安全・抵抗などの基本的人権国民主権をうたうことにより、身分制社会の秩序を全面的に否定した。その延長線上に、人権宣言を前文とし、三権分立にもとづく立憲君主政をさだめる憲法が制定された(1791年)。
 その後の革命の歴史は、新しい社会の秩序はいかなるものであるべきかをめぐる対立の軌跡として捉えられる。

(2)新しい社会秩序の模索
 憲法にもとづいて招集された「立法議会」では、立憲君主政の定着をはかる勢力と、政治的・経済的な領域における一層の民主化を求める勢力が対立した。対外的には、革命の深化を恐れるオーストリアプロイセンなどとの緊張が高まり、戦争が始まった(1792年)。当初戦況はフランスに不利にすすんだため、危機を感じたパリの民衆は武装蜂起して王宮を襲撃し、議会に対して、王権の停止、新しい国会の設置、男性普通選挙制度の採用、および新しい憲法の制定を決定させた。新国会「国民公会」は、招集後ただちに、王政を廃止して共和政を採用することを決定するとともに、国王夫妻を反革命の容疑で裁判にかけ、有罪を宣告して処刑した(1793年)。
 国民公会では、民衆と距離をおき、地方分権と経済的自由主義を重視する主流派と、民衆の動向に敏感で、所有権の制限や生存権の保証に一定の理解を示すとともに、革命や戦争という非常事態に対応するべく中央集権化や経済統制を主張する急進派が対立した。この対立は、急進派が議会外の民衆と同盟して主流派を排除することによって決着した。
 独裁的な権力を得た急進派は、対外戦争の激化を背景に、みずからの政策路線に反対する人々を次々に粛清し、ロベスピエールを中心に「恐怖政治」とよばれる独裁的な政治をすすめたが、反発を招いて失脚した(1794年)。穏健化した国民公会は、所有権の重視、制限選挙制度の採用、5人の総裁に対する行政権の委任を特徴とする憲法を制定し、ここに「総裁政府」が成立した(1795年)。
 しかし、総裁政府は、復権しはじめた王党派と、残った一部の急進派のはざまにあって、安定性を欠いた。また戦局が悪化し、強い政府をもとめる声が高まった。この声にこたえたのが、幾多の戦勝によって頭角を現しつつあった将校ナポレオン・ボナパルトである。

(3)能力主義社会秩序の成立
 1799年、ナポレオンは一部の総裁とともにクーデタを決行し、みずからを含む3人の統領が行政を司ることをさだめる新憲法を発布して「統領政府」を発足させるとともに、革命の終了を宣言した。統領政府は、軍事力を背景として政治を安定させ、行政機構を整備して中央集権化をすすめるとともに、経済活動の活性化を図った。ナポレオンはこれら政策によって国民多数から支持を得、終身統領(1802年)、さらには皇帝(1804年)となり、共和政に終止符をうって帝政を発足させた。
 ナポレオンの目的は、軍事力がもたらす圧力を利用して国内の利害対立を調整・解決し、政治・社会の安定と経済の発展をもたらすことにあった。この目的を実現するべく、彼は、法のもとの平等、所有権の保証、契約の自由、家族関係の尊重などをさだめる民法典(1804年)を制定し、あるいは能力の評価にもとづく将校・公務員の登用をすすめることにより、身分ではなく能力にもとづく社会を構築してゆく。
 バスティーユ監獄襲撃から帝政成立まで15年。この間フランスの社会秩序は、身分制から能力主義へと、その指向性をおおきく変化させた。そのドラスティックな変化ゆえに、この15年という事件は「革命」の名にふさわしい。
【約2000字】

うーむ、われながら、あまり面白くない。面白くないと思ったのはぼくだけでなかったらしく、クライアントからも、いまいち乗り気でない返事が返ってきた。
そんなわけで、やり直し。さてどうしようか、と考えて、今度は国王夫妻(ルイ16世マリー・アントワネット)に焦点を当てて書いてみることにする。

激動の時代を生きるということ


 1789年7月14日、パリの民衆は蜂起してバスティーユ監獄を襲撃した。フランス革命の開始を告げるこの事件のニュースがヴェルサイユ宮殿に届いたとき、国王ルイ16世は「これは暴動か?」と問いかけ、側近は「陛下、革命でございます」と返答したという。
 事態の進行に恐れをなした王族や貴族は、二人の王弟や、王妃マリー・アントワネットの寵愛を受けていたポリニャク公爵夫人をはじめ、ただちに続々と亡命の途に就いた。これに対してルイとマリー・アントワネットは、フランスにとどまることを選んだ。それは、しばしば「優柔不断」と評されるルイの性格のなせる業だったろうか。それとも「臣民の父」である国王に対する敬愛の念が国民のあいだに残っていることを感じとっていたからだろうか。
     ***
 もっとも、考えてみれば、革命の引金を引いたのはルイ自身だった。フランスでは、第1(聖職者)・第2(貴族)・第3(平民)の3身分からなる「身分制」という旧き社会秩序(アンシアン・レジーム)が比較的強く残り、このうち第1・第2身分は租税負担を免除されていた。ところが、独立戦争を戦うアメリカに対する軍事的支援によって国庫は破綻寸前になり、これをみたルイは、租税負担を免除されていた第1・第2身分を対象とする新税の導入を図った。
 ところが、新税の是非を議論するべく開催された全国三部会において、第3身分代表はみずからの集会を「国民議会」と命名し、第1身分と第2身分の代表に合流をよびかけた。そして、数年来の不作で困窮にあえいでいたパリの民衆は、この動きに呼応してバスティーユを襲撃した。民衆蜂起に力を得た国民議会は、封建的特権廃止を宣言するとともに、基本的人権国民主権をうたう「人権宣言」を採択し、身分制社会の秩序を全面的に否定するに至る。事態はルイの予想をこえて進んでいったのである。
 国王が「臣民の父」として頂点に位置する身分制社会秩序を否定する革命の急速な進展に危機感をもった国王夫妻は、ようやく1791年、変装して逃亡を試みた。しかし「ヴァレンヌ事件」とよばれるこの逃亡劇は、途中で発覚して失敗に終わった。事態に「臣民の父」の裏切りをみてとった民心は急速に国王夫妻から離反し、国王一家はパリで事実上の幽閉状態に置かれることになる。
 国民の支持を失った国王夫妻にとって、最後の頼みは、マリー・アントワネットの母国オーストリアをはじめとする諸外国からの外圧だった。オーストリアプロイセンなどは身分制社会の性格を残しており、その秩序を否定するフランス革命が輸出されることは、自国の死活に関わる問題だったからである。国王夫妻による水面下の工作もあり、1792年にはフランスとこれら諸国のあいだに戦争が始まった。
 ところが、当初戦況がフランスに不利にすすんだため、危機を感じたパリの民衆は武装蜂起して王宮を襲撃し、議会に対して王権の停止を求めるという直接行動に出た。民衆の圧力のもと、議会は王政を廃止して共和政を採用し、さらには(元)国王夫妻を反革命の容疑で裁判にかけることを決定した。
 かくして1793年、ルイは1月に、マリー・アントワネットは10月に、各々有罪を宣告され、断頭台に送られた。
     ***
 革命前夜、18世紀後半の欧米は、おおきく変貌しようとしていた。イギリス産業革命アメリカ合衆国独立など、新しい社会秩序の誕生を予感させる出来事が相次いでいたのである。「身分制」が比較的強く残っていたフランスに対して、これら出来事は大きなインパクトを与え、革命に帰結した。
 1774年に即位したルイも、社会が変わる気配を感じ取っていなかったわけではない。彼は、引続く戦争や、イギリス産業革命に対抗するための産業振興といった課題に対応するべく、さまざまな改革を試みた。第1・第2身分を対象とする新税の導入も、その一環である。しかしルイは、身分制という旧き社会秩序が問題を孕むことを認識しつつも、そこから自由にはなれなかった。革命のなかでマリー・アントワネットとともに命を失わざるをえなかったのは、そのためである。
 その後も革命は新しい社会秩序のあり方を求めて紆余曲折を繰返したが、戦局が悪化するなかで高まったのは強い政府をもとめる声だった。この声にこたえたのが、幾多の戦勝によって頭角を現しつつあった将校ナポレオン・ボナパルトである。1799年、彼はクーデタを決行して政府の実権を握るとともに「革命の終了」を宣言し、5年後には国民の圧倒的な支持のもとに皇帝(1804年)となった。新たな「臣民の父」の誕生である。彼は、新しい社会秩序に関する明確な構想をもち、その定着に努めた。この新しい社会秩序こそ、わたしたちにもなじみぶかい「能力主義」(メリットクラシー)である。
 ナポレオンの帝国は10年で終わりを告げ、1814年にはルイの上の弟が国王(ルイ18世)として亡命から帰国し、これといれちがいにナポレオンは孤島セント・ヘレナに流されるが、しかし社会秩序が元に戻ることはなかった。
     ***
 時間を遡って1770年。フランス王太子ルイ(のちのルイ16世)とオーストリア皇女マリー・アントワネットの結婚式がヴェルサイユ宮殿で盛大にとりおこなわれたとき、ともにまだ十代だったふたりは、かくも激動の時代を生きることを予想していただろうか。
【約2200字】

おお、ちょっとはマシになったぞ・・・という気がするのは、独りぼくだけだろうか?
同じような内容を持つ(上の2つの文章の場合は、ほとんど同じである)文章でも、叙述のスタイルをかえるだけで、かなり違った印象になるわけだ。


そんなわけで、叙述の力はバカにできない(=コワい)ことを感じとった、梅雨明け猛暑の仙台。