「書く」ことの責任

宮部みゆき『英雄の書』(新潮社・新潮文庫、2012)が文庫化されたので読了。
ぼくは小説がニガテなので宮部さんの熱心な読者ではないのだが、『火車』は傑作だと思っているし、その印象が強いので「宮部=社会派」という図式が脳裏に刷りこまれ・・・ているところに、『英雄の書』はファンタジーもの。ちょっと驚かされつつ、夏の夜の蒸暑さをこらえつつ一気に読む。
ネタを割る気はないし、色々な読み方が出来る一冊だとは思うが、いちおう文章執筆を生計の一環としているもののひとりとして、「書く」ことに伴う責任の重さについて考えさせられた。
ぼくは、学術論文はなさけなくもサボりまくっているが、学術書を含む各種書籍については多少のアウトプットがある。しかし、

  • それらが読者に影響を与えているか。
  • 与えているとすればそれはどんなものか。

といった問題については、あまりきちんと考えてこなかった。国民の税金を使って研究している存在としてはいかなるものか、といわれるかもしれないが、これらアウトプットの想定オーディエンスは一義的には少数の科学者からなるコミュニティであり、彼らの評価(「同僚による評価[ピアレビュー]」と呼ばれている)さえクリアすれば、納税者に対する責任は果たしているといってよい。
そして、いわゆる一般読者むけの啓蒙書であっても、じつは事態はかわらない。啓蒙書を書いているときのぼくの念頭にあるオーディエンスは、やはり科学者コミュニティであり、それを一般読者にわかりやすいように直してくれるのが編集者である。だから編集者のしごとは(二重の意味で)エライのであり、彼らが「直しようがない」と判断すると、企画はボツになる。[*]
しかし『英雄の書』を読むと、ぼくらがつむぎだす「物語」は、それが「科学的」であると自称する学術論文や学術書であっても、場合によっては一般読者を含む人々の人生を左右するほどの力を持つこと、それゆえ「書くこと」には大きな責任が伴うことが痛感される。本書からぼくが読取ったのは、学術的な文章であれ啓蒙的な文章であれ、

襟を正して執筆しなければならない

というメッセージである。
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[*]そういえば、ぼくは、

  • 新書の執筆を依頼された。
  • ドラフトを出しては書き直しを求められるというやり取りを何度か繰返した。
  • 最終ドラフトを出した。
  • 担当編集者から「そのうち連絡します」というメールを最後に音信不通にされた。
  • そのまま一年たった。
  • さすがに愛想を尽かし、こちらから「なかったことにしてくれ」という断りメールを出した。

という経験がある。当該ドラフトは、大幅に加筆したうえで、別の出版社から出版してもらったので、まあ「終わり良ければ全て良し」といえばいえないこともないが、それにしてもステキな経験ではあった。
この件は、断りメールに「返信無用なり」と書添えたこともあってか断りメールに対する返事もなかったので、本当の事情はわからないが、その編集者が「これでは一般読者に理解されない=売れない」という判断を下した結果なのだろう。そして、この判断は、正しいかもしれない/正しかったのだろう。
しかし音信不通というのは「うーむ」なやり方であり、ぼくが「わしゃこの出版社とは二度と組まんぞ、さよなら印税生活」と誓ったのはいうまでもない。ちなみに、ここでいう出版社とは光文社であり、ここでいう新書とは光文社新書であり、ここでいう担当編集者とは(以下は個人情報なので自粛)。