リフレキシヴであることの困難(大げさ)

釣瓶(つるべ)を奪取して井戸の使用を不可能にしたという恐るべき伝説をもつ花・朝顔(==>)も雨露とともにそろそろ仕舞い支度の、秋の空気がしのびよるここ数日の仙台。それにしても、この約一ヶ月、あっという間だった。原因は、ひとえに「教授資料」にある。
教授資料といっても、ご存じない諸賢が多いだろう。かくいうぼくも最近まで知らなかったが、要するに教科書の教員用参考書、通称「指導書」である。去年から今年にかけて、高校世界史教科書を書く機会に恵まれた(現在検定中)のだが、去る8月の編集会議で教授資料執筆の命が下った。教授資料は、教員が当該教科書をもちいて授業をする際の参考書となることが期待されているため、高校教科書については高校教員が執筆することが多い(ちなみに一般書店では買えない)。ところが、ぼくが執筆に参加した教科書は、全面的な改稿を加えられたほとんど新作に近いものであり、また「国内最高水準」(<==「本気」と書いて「マジ」と読む)を目指しているため、執筆者が責任を持って教授資料を書くことになったのである。
設定された締切はず〜〜〜っと先だが、こういうのを先延ばしすると後悔する羽目になる可能性が高いことは、去年の震災で経験済。「教科書本文は出来ているし、パッパッと行くだろう」と思って手をつけたのだが、これが運のつきだった。ここから艱難辛苦の暑い夏が始まるとは、だれが予想できたであらうか(反実仮想)。
自分が書いた教科書の教授資料を書くというのは、つまり「自分のテクストに自分でコメントする」というリフレキシヴ(自己反省的、自己回帰的)な営みである。しかし、言いたいことはほとんどすべて原テクストに書いたわけだから、コメントのネタがない。書くべきことが思いつかないという経験をしたのは、ホントに久しぶりだった。

おまけに原テクストの分量が四百字で100枚弱だったのに対して、コメントは120枚!!

 コメントのほうが多いんだね、これが。
それでも、来週から北大で集中講義が始まるので、その前に終わらせたいという一念でどうにか一昨日に終わらせてデータを出版社に納品。昨日からすっかりグタグタモードに入った。


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最近、よく「リフレキシヴ」という言葉をきく。すなわち、ポストモダンの時代にあっては、著者は特権的な地位にあることは許されないのだから、自分のポジショニングを自省して研究・執筆を進めるべきであり、その意味で今日の(少なくとも人文社会)科学はリフレキシヴであることを義務づけられている、云々・・・といった感じの文章が、オシャレな言説として流通している。
しかし、だ。リフレキシヴな仕事を実際にやってみてほしい。自分のテクストに、テクストの分量以上のコメントをつける、とかね(<=ぼく)。

すばらしく消耗するぞ。

リフレキシヴであるって、そもそも実践(プラクシス)の次元において容易ならざることなのである。