『詩歌と戦争』を読む教授会。

【5/10追記】
遅れに遅れていた拙訳・ジュリアン・ヴァンサン「市民社会ー政治と歴史のはざまでー」(『思想』1069、2013)がようやく刊行された。ひとえに『思想』編集長・互さんの尽力と忍耐の賜物である。
しかし、この間に、ヴァンサン氏はフランシュ・コンテ大学ブザンソン校からパリ第一大学に戻ってしまっており、著者紹介データが旧くなってしまったではないか。まったくレンヌ大学出版会渉外部のやる気のなさといったら……ブツブツ。
【本文】
月に一度の教授会は、貴重な(?)読書とお昼寝の時間である(学部長には内緒)。今日のお供は中野敏男『詩歌と戦争』(NHKブックス、2012)。北原白秋の童謡を手掛かりに、大正から昭和前期にかけて日本の民衆に共有された「郷愁」のありかたの変容に、帝国意識・ナショナリズムの普及と総動員体制の一環としての「心情動員」の開始をみてとるという、じつにワクワクする内容で、おもわず目が覚めてしまった。読了してから昼寝し、気が付いた……ら、ちょうど議長が教授会終了のアナウンスをしているところだった。われながら、ステキにパンクチュアルである。
もっともこの本、もろ手を挙げてアーギュメントに賛同できるといいがたいところが残念。
(1)読みすすめてゆくと、「はじめに結論ありき」の強引な立論が目立ちはじめる。たとえば、北原白秋が作詞した校歌に「フレー」という掛け声が多用されていることのなかに

このような校歌は、実はそれ自体が歌う者自身に向けられた応援歌として作られていると考えられるのです。つまり、学校を表現するものとして作られたその校歌には、自分たちを行動に駆り立てるために自ら自身に向かって自発的に歌いかけ鼓舞する応援歌という循環が仕組まれていて、この仕組みによりその校歌では支持されている責務や規範が「与えられたものだが自由に欲した」と認められる行動の指針となっているわけです(p.217)

という「自由の動員」のメカニズムをみてとるという、このアクロバティックな論理は、な・な・なんだ?
(2)これは趣味の問題だが、「自由の動員」つまり自発的動員論は、読んでて息苦しゅーていかん。なんせ、強制しても「動員」、放っておいても「動員」、とにかく「動員」、いつでも「動員」、どこでも「動員」、だれでも「動員」、咳をしても「動員」((c)種田山頭火……って違うか)。
それでは「動員」に対抗するメカニズムは、というと、

もうこれまで通りではやっていけない、やっていってはならない、そんな声がまずは負担を強いられてきた人々からあがり、それが生活レベルから広範な人々に共感されて……このような意識が確かに結びあうなら、それは生活する民衆の精神からの自己変革につながり、やがてはそれがこの歴史と社会に新しい未来を開く力になっていくかもしれません(p.288)

という感傷レベルのものが出てくる。感傷レベルでしかないというのは、ま、そりゃそうだろう、とにかく「動員」なんだから。
ちなみに「もうこれまで通りではやっていけない、やっていってはならない、そんな声」とか「生活する民衆の精神からの自己変革」とかが、じ・つ・は「動員」されたもんだった、という可能性は考えなくていいんだろうか? 「自由の動員」論を突詰めたらそっちに行かないか、ふつう?


でも、中野さんのアーギュメント、基本的に好きです。面白いです。考えさせられます。ホントです(だから辛口になるんだろうね、きっと)。