滞仏18日目(火):言語教育の二重の二重性

いろいろと(とくに肝臓が)疲れた週末をのりきり、ノンビリとテレビのニュースをみていたら、「バベルの教室」というドキュメンタリー映画が紹介されていた。面白そうだったので夕方から映画館にでかけたら、なんと一昨日から今日まではフランス全土で「春の映画祭」が開催されており、入場券が3.5ユーロ(500円弱)で、ラッキー。
「バベルの教室」は、パリ10区にあるフツーの公立中学校の移民子弟受入学級(classe d'accueil)の一年間を描いたドキュメンタリー。移民子弟受入学級とは、移民子弟は当初フランス語を話せないことが多く、そのことが疎外の原因となることが多いことを考慮して、初級フランス語を教えながらフランス社会への定着(insertion)を図るために設けられている制度である。周知のとおりパリ10区といえば「多国籍」で知られる地区なので、こういった制度はいわば「マスト」だろう。ちなみに「バベルの教室(La cour de Babel)」というタイトルが「バベルの塔(La tour de Babel)」を掛けていることはいうまでもない。
さて、フランス語教育といえば、言わずと知れた「最後の授業」である。アルフォンス・ドーデの手になるこの小説は、田中克彦(『言葉と国家』、岩波書店、1981)によるナゾ解き兼弾劾を含めて、ぼくのお気に入りなのだが、例の「ある民族がどれいとなっても、その国語を保っているかぎりは、そのろう獄のかぎを握っているようなものだ」(『最後の授業』、桜田佐訳、偕成社、1993、原著1873)というアメル先生のフレーズは、やっぱりカッコいいよなあ……というのは措いておき、フランスに限らず、言語教育政策はポスト・コロニアリズムの激烈な批判の対象になることが多いが、「バベルの教室」をみていて、そんな単純でもないんだなあという気がしてきた。


あっ「最後の授業と移民子弟受入学級を同列に扱うのはいかがなものか」ですか、そうですか、そうですよね、そうですがね、そこがね、そこがミソなんですよ、ね。


この映画に出てくるのは、政治的あるいは宗教的な迫害、両親の離婚、保護者の失業といった理由で、中国からモーリシャスまで世界各地からフランスにたどりついた中学生たちだ。彼らにとって、フランス語を学ぶことは生きるために必要な道具であり、フランス語帝国主義とか文化的植民地主義とかいった小難しい言葉が入り込む余地はない。
もちろん、移民子弟受入学級が「最後の授業」からアリアンス・フランセーズに至るフランス語帝国主義的言語政策の一環という性格をもっていることはいうまでもない。また、フランス語を理解したからといって、移民子弟がフランス社会で成功するとは限らない。しかし、移民子弟にまったく考慮しない言語教育政策と比較して、どちらがマシかといえば、少なくともぼくにとって答えはシンプルに「あったほうがいろいろとオトクでしょ」だ。また、言語を理解しなければ、成功はおぼつかない。その意味で、政策と移民子弟個人という二重のレベルにおいて、言語は二重の性格をもつ複雑な存在なのだろう。


それにしても、主役というべき移民子弟受入学級の担任ブリジット・セルヴォニ(Brigitte Cervoni)先生は、画面をみているだけでも、じつにすぐれた教育者であることがわかる。実際、彼女は、この映画の舞台となった学級を担当した翌年「国民教育視学官」に栄転した。いちおう教育者であるわが身を顧みて反省しつつ、こういう優秀な先生を移民子弟受入学級なるところに投入するフランスの教育システムの懐の深さに感服した90分也。