工藤光一(1958-2015)

なんとなく風邪気味のなか、全北大学で開催されるセミナーに出席するため全州(韓国)に出かけたところ、けっこうな寒さとあまりの熱烈的大歓迎ぶりにすっかり風邪をこじらせ、ゼミも会議も全部キャンセルして布団に閉じこもる2日間をすごしてしまったワタシは、やっぱりトシである。


そんな布団のなかで、工藤光一さんの訃報に接することになった。工藤さんは、研究テーマがもっとも近い先達であり、ここ数十年、ホントにお世話になってきた。そのため喪失感が大きく、うまく言葉にならない。
工藤さんに初めてお会いしたのは、1986年、大学院に「入院」して参加した柴田三千雄先生のゼミだったろうか。自己紹介で研究テーマを話したら、柴田先生は「そのテーマだったら、工藤くんと槙原くん(槙原茂さん)がいるじゃないか」と、あたかも「同じテーマに3人は多すぎる」といわんばかりに例のクールな口調で言い放ち、ぼくの眼の前を真っ暗にしてくださったのだった。もちろん、工藤さんもその場にいらっしゃったはずだ。
その後、たしか1989年、工藤さんはアラン・コルバンのもとで学ぶべくパリ第一大学に留学された。ぼくは、パリに出かけるたび、国際大学寮地区(シテ)にもほど近いダヴィエルのお宅にお邪魔し、昼食をご馳走になったり、タング・フレールの食堂やムフタールのレバノン料理屋に食べに行ったりと、家族ぐるみの付き合いをさせていただいた。そして、はじめてパリ第一大学に行ったら職員さんがスト中だったとか、資料調査先のオーブ県文書館(トロワ)では昼休みがあるため、閲覧室を追い出され、閉じられた玄関の前で手作りのサンドイッチをかじって再開館をまつのが常だ(同文書館は市の郊外にあり、市街地に戻るのは困難)とか、工藤さんのあれこれの苦労話で盛り上がったのだった。おっと、もちろんぼくだって、フランス滞在中の苦労話だったら負けないのである。
あのころは二人とも貧乏で、若く、時間と夢だけがあった。
2004年に仙台で開かれた日本西洋史学会のときは、終わったあとに飲みすぎて東京に戻れなくなった工藤さんを拙宅にかつぎこんだことも、いまとなってはかぎりなく懐かしい。
最後にお会いしたのは、2012年6月、工藤さんの敬愛せる師匠である二宮宏之さんの記念シンポジウムの際だったろうか。わりとお元気な姿だったので、まだまだ、と思っていたのだが。
残念である。


Le temps s'en va. Le temps non, mais nous, nous en allons.