政治的中立性とは何か?

そんなわけで、政治的中立性である。
西宮から戻って山形蔵王に行き、山形蔵王から戻って(一日おいて)東京出稼ぎツアーに出て、先ほど仙台に戻ったら、冷たい雨が降っていた。そんな師走シーズンのおかげでぜんぜん頭が働かないのだが、せっかく県教委から返事を頂いたので、とりあえず一言だけ。

政治的中立性をもった言説や行動などというものは、存在しない。

いかなる言説や行動も、いや言説や行動を忌避するスタンスすら、政治的に中立ではありえない。今回の柴田農林高校の事例について言えば、「戦争法案」という用語を使おうが使わまいが、アンケートを実施しようが実施しまいが、それらはすべて政治的中立性を欠いている。そんなことは政治学の「基本のき」ではなかろうか。 
「政治教育」を公立の初中等学校に導入するのであれば、これぐらいの認識をもっておいてもらいたいのだが、県教委の回答からは、そこまでの覚悟は読取れない。政治的中立性なるものが存在すると錯覚しているのか、両論併記すればよいと(そのへんのマスコミみたいに)軽く考えているのか、よくわからないが、きわどいところに足を突っ込んでいるのだということだけは頭の片隅においておいてもらいたい。
ただし、学校というのは特殊な空間であり、教員は生徒・学生に対して権力を行使しうる立場にある。もちろん一教師たるぼくもそうであり、その事実に対しては謙虚でなければならない(わりには、どうみても謙虚じゃない文章が続ているなあ、自分)。したがって、柴田農林高校の事例について言えば、顧問教員がアンケートの文面にタッチしたことは、これは軽率のそしりを免れないだろう。生徒にすべてを任せておけばよかったのだ。生徒が主体的に作成したアンケートであれば、それがいかに稚拙なものであれ、いかに政治的中立性を欠いたようにみえるものであれ、その文面は全力を尽くして尊重されなければならない。

政治的中立性なるものがあるとすれば、それは、可能なかぎり権力関係を排したフィールドにおいて、個々をとってみれば政治的中立性を欠いたさまざまに多様な意見が交わされるプロセスの総体のみに宿りうるのである。

教育基本法【学校教育法と書いていたが、間違っていたので修正】が政治的中立性の確保を求めているとすれば、それ以上のような意味において理解されなければならない(と思う……ちょっと弱気)。


おお、われながら、じつに偉そうな文章になった。か・な・り・疲れているぞ、自分。