マトモな新聞記事に出会うということ。

最近なかなかマトモな新聞記事に出会わないのだが、仙台の地元紙『河北新報』の5月1日付朝刊に載った熊本地震関連の記事「二つの被災地つなぐ使命胸に」は、心を打つ文章だった。

  • 河添記者グッジョブ――面識ないけど。
  • 河北新報』も捨てたもんじゃないんだねパトラッシュ、ぼくは知らなかったよ――上から目線。
  • でもぼくは、2014年夏のイタイ「柏葉竜記者」経験があるから、それ以来『河北新報』は基本的に取材拒否だけどね、うん――関係なし。

ま、どうでもいい柏葉竜記者はどうでもいいので措いといて、せっかくなので当該記事を転載しておきたい。一読して(ぼくのように)感涙にむせび泣くがよいわ。

「<熊本地震>二つの被災地つなぐ使命胸に」
――古里の現場を取材して/報道部・河添結日(ゆいか)(26)――


 4月14日午後9時26分、古里の熊本が一瞬で被災地になった。被災地という言葉はそれまで東北を指すと思い込んでいた。同15〜26日、現地を取材し、熊本と東北の二つの被災地の現状を伝え、つなぐことが使命だと感じた。


 実家は熊本市東区沼山津(ぬやまづ)にある。大きな被害を受けた益城(ましき)町と隣接し、町役場まで約4キロと近い。繰り返しテレビに映し出される見慣れた建物が倒壊した風景。混乱と不安で、居ても立ってもいられなかった。職場に駆け付け、現地取材の許可を得た。
 15日早朝、仙台を出発し新幹線と飛行機を乗り継ぎ、約6時間後に熊本に着いた。家族や実家は無事だったが、庭には最大約20センチ幅の地割れが何本も走り、隣家の境のブロック塀が崩れている。地震の威力をひしひしと感じた。
 1.5キロの小学校の通学路。夏に暑さをしのいだお堂はつぶれ、道は瓦が散乱し、ひっくり返った建物でふさがれている。台風や大雨はよくあるが、まさか地震が起きるとは。当たり前に存在し続けると思っていた景色の無残な変わりように、胸が締め付けられた。


 共同通信社の記者で、昨年5月から河北新報社に出向している。東日本大震災の被災地の人々が人口減少に適応しながら、心豊かに暮らす姿を描く連載「適少社会」を担当、宮城県南三陸町石巻市を取材した。
 東北の震災前や直後の風景を知らない。取材で話を聞き想像するしかなかった。古里を失う苦しみ、悲しみ、むなしさ−。わが身に起きて初めて、痛いほど分かった。今までどこか人ごとだったのかもしれない。
 16日未明、実家で就寝中に本震が起きた。震度6強。ジェットコースターのように全身が大きく揺さぶられる。家じゅうに物が散乱し、消防車や救急車のサイレンがひっきりなしに聞こえる。朝、街を歩くと、明らかに状況が悪化した光景が広がっていた。


 取材は東北と熊本の両方の視点を意識した。震災を機に南三陸町に移住し、今回、熊本でボランティアに奮闘する益城町出身の同い年の女性。石巻での医療支援の経験を糧に、避難者の心のケアに当たる熊本の医師。頭にタオルを巻き、避難所運営に奔走する小学校時代の担任。地元のために必死に踏ん張る同郷の人。皆に奮い立たされた。
 河北新報の腕章を着けて避難所を歩いていると、避難者や支援者など多くの人が声を掛けてきた。「震災を心配していた」「東北にもボランティアで行った」。熊本をはじめ、全国各地の人が今も東北に心を寄せてくれていた。その思いにもまた、鼓舞された。
 実家の近所や幼なじみの被災した家は、引っ越したり建て替えたりすることになったと聞く。慣れ親しんだ地域の変容に、むなしさがあふれる。東北の被災地で見聞きした状況が、目の前の現実となった。
 1000キロ以上離れた二つの被災地のはざまに立ち、これからも「伝える」という使命を精いっぱい全うしたい。それが私にできる熊本と東北の復興への貢献だと信じている。