足羽俊夫(1931-2017)

パリから足羽さんの訃報が届いた。

足羽さんといっても、ぼくの周囲では、知っている人はほとんどいないだろう。鳥取県・日南町の出身。独学で絵を学び、1961年に渡仏してパリ美術学校(ボザール)に入学。石版画で頭角を現し、1964年卒業後、日本人として初めて同校の助手として採用される。しかし、職業芸術家の志やみがたく、3年で辞職して筆一本のパリ生活を選択し、「貧乏画家」として悪戦苦闘の日々が始まった。

ぼくら夫婦が足羽さんと知りあったのは、足羽さんの作品がどうにか認められはじめた1992年のことだ。成田からロワシーに向かうエール・フランスの機内で、偶然、隣りあったのである。足羽さんはいつもダンディで、そのときもブレザーに蝶ネクタイという姿。ぼくは、長いフライトの時間をつぶすべく、ずーっと『ル・モンド』を読んでいた(読むのに時間がかかるので、時間つぶしにはもってこいなのだ)。そんなわけで、おたがい「こいつイエローだけど、ぜったい日本人じゃねーよな」と思いつつ時間を過ごし、ロワシーに着く直前、足羽さんから「日本人ですか?」と……フランス語で……質問されたのだった。さらにロワシーでは、足羽さんが日本でもらって手荷物に入れて運んできた娘さん用の打掛が(高級そうにみえたのか)税関で引っかかり、蝶ネクタイが怪しまれたせいも絶対あると思うが、延々と取り調べが続くことになった。ぼくらが一足先に税関を出ると、そこにフランス人の女性がひとり、不安そうに立っていた。きっと足羽さんの奥様だろうと思って「ひとり、打掛がひっかかって税関でストップかけられてるひとがいますが……」と声をかけたのが、四半世紀に及ぶ交際の始まりとなった。

その後、パリに行くときは、19区にある足羽さんのお宅に伺うのが習慣となった。パリ市が芸術家用に建てた賃貸アパートで、吹抜けでガラス張りのアトリエがあり、そこに版画や油絵が乱雑に積み重なっていた。伺うたびにワインで大酒盛り大会となり、ヘロヘロの前後不省になりながら深夜にタクシーでホテルに戻るのが常だった。娘のユリコと息子のタミーノを、とてもかわいがっていた。

大西洋岸にあるヴァンデ県はユー島(ile d'Yeu)にある足羽さんの別荘に招待され、フランス人のバカンスを経験したのも、いまとなっては良い思い出だ。足羽夫人であるリュシーは(どこで知りあったのか)名家の出身で、ちゃんとバカンス用の別荘を持っていたのである。スズキを一匹丸焼きにしたり、あれは楽しかった。

1996年、故郷・日南町に町立美術館が建設された際、足羽さんは手元に置いていた作品の大部分を寄贈し、名誉館長となった。ぼくらもオープニングに招待され、日南町まで出かけた。

拙著のうち『フランス近代社会1814-1852』(木鐸社、1995)と『歴史学アポリア』(山川出版社、2002)では、表紙に版画と油絵を使わせてもらった。両者の現物は、いま、狭いながらも楽しい(?)わが家の壁を飾っている。ちなみに『歴史学ってなんだ?』(PHP研究所PHP新書、2004)では、章扉に石版画を使わせてもらった。

最近はパリでしごとをしていない(ロワシーに着いたら、地下の国鉄駅からTGVに乗ってモンペリエに直行する)こともあり、最後に足羽さんに会ったのはずいぶん前のことになる。あれはたしか2009年夏、かみさんと娘の3人でパリとレンヌをまわったときだった。足羽さんもリュシーも、かわらず元気で親切だったことを覚えている。

2015年、フランス芸術文化勲章シュヴァリエ)を受賞。2016年、鳥取県県民功績賞を受賞。今年の年賀状には「日南町美術館20周年を迎え、誇らしく、また、幸せです」と(フランス語で)あった。どことなく「やりきった」という満足感が伝わってきた。職業芸術家という仕事も、半世紀以上のフランス生活も。

Le temps s'en va. Le temps non, mais nous, nous en allons.

(時はすぎゆく。時はとどまり、われらはすぎゆく。[ロンサール])