現代フランスをみる眼

1 「モデル」から「先行者」へ

【日仏の現在】

二一世紀の日本において、フランスはいかなる存在としてあるのだろうか。

経済協力開発機構OECD)が公表しているデータ(日本は二〇一七年、フランスは二〇一五年)にもとづき、いくつかの点について両国を比較してみよう。

経済の領域についてみると、一人あたり国内総生産(GDP)は約四万ドル、平均収入は約四万ドル、平均寿命はほぼ八〇歳など、国の「豊かさ」を表す指標はほぼ同じ値であり、また高い水準を達成している。両国は、いわゆる先進国に属しているといってよい。

実際にフランスを訪れてみると、ひとによって違うかもしれないが、「違う」というよりは「似ている」という印象を受けることのほうが多いのではなかろうか。たとえばスーパーマーケットに入ると、品ぞろえや雰囲気など、わたしたちにとってなじみぶかい空間が広がっていることがわかる。陳列棚に並べられている商品の価格も、ユーロと円のレートによって変化はあるが、ものすごく高いとか安いとかいった感じはしないはずだ。

これに対して社会の領域では、両国の違いが目立つ。たとえば、失業率は、日本が約三%であるのに対して、フランスは一〇%を超えている。また、当該年度の移民受入数は、人口が倍近い日本(約六万人)は、フランス(約二五万人)の四分の一にしかすぎない。今日の先進国では、失業とりわけ若年層の失業や、大量の移民は、しばしば社会問題をひきおこし、それを含めて、その是非や解決策のありかたが重要な政治的争点となることが多い。その意味では、日本のほうが安定した社会を実現しているといえるかもしれない。

実際、一九七〇年代の石油危機以降、フランス経済は長期の衰退過程に入るが、それは何よりも大量失業、とりわけ若年層の就職の困難として発現した。そして、ここから生じた人々の不満は、多くは、職を奪う存在としてイメージされた移民や移民子弟にむけられ、排外主義的な主張を声高に叫ぶ国民戦線(フロン・ナシオナル)など政治勢力の支持基盤を構成した。さらに、この事態に反発する一部の移民・移民子弟は、一九九〇年代から不安定化する中近東・北アフリカの政治情勢と共鳴し、パリをはじめとするフランス各地でテロリズムに走り、今日に至っている。

このような状況において、ぼくらがフランスから学べること・学びうることは、なにか存在するのだろうか。経済の領域では、ほとんど同じパフォーマンスを実現しており、また社会や政治領域では、むしろ日本のほうが安定度の点で優位に立っているという今日の状況において。

 

【モデルとしてのフランス】

ここで、日本が開国し、フランスと本格的な交流を開始して以来、日本にとってフランスがいかなる存在であったかを振返ってみよう。

日本が開国した一八五〇年代は、フランスでは、第二帝政(一八五二~一八七〇年)と呼ばれる時期にあたる。第二帝政期のフランスを治めた皇帝ナポレオン三世は、いちはやく産業革命に成功して世界のリーダーとなっていたイギリスに追いつく(キャッチアップする)べく、政府の主導のもと、工業化を強力に推進した。これにより、フランスは帝政末までに産業革命を完了することになる。一八六〇年には英仏通商条約が結ばれ、両国間における輸入禁止措置の撤廃と関税の大幅な引下げを実現するが、これはフランス産業革命の完了が間近であるであることを意味した。開国当時の日本人の目に映ったのは、世界のトップランナー・イギリスに追いつかんとするフランスの姿だったのである。

その後フランスは、ドイツとの戦争(独仏戦争、一八七〇~七一年)に大敗して第二帝政の崩壊を招くも、つづく第三共和政に入って北アフリカ・東南アジアなど各地に植民地を獲得し、二つの世界大戦に勝利し、第二次世界大戦後は脱植民地化・ヨーロッパ統合・高度経済成長をすすめるなど、列強あるいは先進国というイメージをふりまきつづけた。そのため、開国後の日本にとり、フランスは、つねに、イギリスやドイツ、さらにはアメリカ合衆国(以後、合衆国)とならび、見習い、模倣し、さらには追いつき追いこすべき「モデル」として存在してきたといってよい。

とりわけ第二次世界大戦後の日本では、政治・経済・社会の民主化が主要な課題とみなされたことから、フランス革命など幾度もの革命や、パリ・コミューン(一八七一年)など諸反乱の経験を有するフランスは、いわば「民主主義の祖国」とみなされ、きわめて重要なモデルとして捉えられた。さらにまた文化の領域では、モード・ファッション・料理・思想などをリードする「美し(うまし)国」として、人びとのあいだで絶大な人気を誇ってきたことは、いうまでもない。

フランスは、長いあいだ、日本にとっての「モデル」だったのである。

しかしながら、先述したとおり、とりわけ一九七〇年代以降、フランスは政治・経済・社会の諸領域で、さまざまな問題に直面し、場合によっては日本の先行を許すに至った。これ以降、モデルとしてのフランスを語ることは不可能であり、少なくとも困難な営みとなった。

 

先行者としてのフランス】

それでは、フランスを観察し、語ることは、今日においては無益なことなのか、といえば、そうではない。ぼくらにとってフランスは、見習うべき「モデル」ではなくなったかもしれないが、依然として「先行者」として存在しつづけているからだ。

ここでいう「先行者」とは、ぼくらが直面している、あるいは近い将来に直面することが予想されている諸問題について、すでに直面し、対策を模索し、対応や解決に成功あるいは失敗し、その経験によって、ぼくらに正または負の教訓を与える存在である。実際、さまざまな領域において、フランスは、日本にとっての先行者とみなせるし、またみなすべき存在である。

たとえば、今日の日本にとって最大の問題のひとつが、少子高齢化と、それに伴う人口減少であることは、いうまでもないだろう。日本の合計特殊出生率は一九七五年に二を切り、二〇〇五年には一・二六にまで低下した。その後、二〇一六年には一・四四にまで回復しているが、出生者数は減少の一途を辿っている。それに伴い、総人口も二〇〇九年から減少に転じ、今日に至っている。少子高齢化や人口減少は経済活動の停滞や社会システムの弱体化をもたらすから、この事態に適切に対応するための施策が、さまざまに構想され、あるいは試行されている。

ここで目をフランスに移すと、少子高齢化や人口減少という問題は、彼の地ではすでに一九世紀後半に現出していたことがわかる。同時期の自然増加率(出生数から死亡数を引いたもの)は二パーセント程度であり、これは他の諸国と比して圧倒的に低かった。六五歳以上の人びとが総人口に占める「高齢化率」が七パーセントをこえる社会を通常「高齢化社会」と呼ぶが、高齢化社会になったのは、日本が一九七〇年に対して、フランスはじつに一八六四年である。また、二〇世紀前半、フランスの総人口は四千万人前後を維持し、ほとんど増えなかった。総人口が増加しはじめるには、第二次世界大戦の終了を待たなければならない。

ぼくらにとって、フランスの歴史は先行者の歴史である。そして、その成功と失敗は、ぼくらにとっては教訓として機能しうる。その点において、ぼくらがフランス、とりわけその歴史から学べること・学びうることは、依然として存在しているといわなければならない。

 

2 分裂と統合の弁証法

【深く重層的な分裂】

フランス、とりわけ現代フランスは、いかなる特徴を持っているのだろうか。とりわけ日本と比較したとき、その独自性はいずこに見出されるのだろうか。

ぼくは、現代フランスの最大の特徴は「分裂と統合の弁証法」という言葉で表現できると考えている。「分裂と統合の弁証法」とは聞きなれない言葉かもしれないので、まずこの点について説明しておきたい。

現代フランス史は、たがいにおおきく異なる立場に立つアクターたちが相対立するなかで、動いてきた。そこにおいてまず印象的なのは、彼らの立場のあいだの距離の大きさと、対立の激しさである。

例として、ちょっと時間を遡るが、一七八九年のフランスをみてみよう。数年来の天候不順による不作、国王政府による中央集権化の進行、のちに第二次百年戦争と呼ばれるほどにひきつづく戦争による国力の疲弊と増税の試みなどにより、国民の不満は高まっていた。もっとも、ここでいう「不満」の具体的な内容や志向性は、階級・階層・身分により、あるいは一人ひとりの状況により、おおきく異なっていた。大貴族たちの多くは、国王政府による中央集権化がみずからの特権をほりくずしつつあることに不満をいだき、政治・経済・社会の諸領域で特権身分(第一身分すなわち聖職者と、第二身分すなわち貴族)が実権をにぎり、権力をふるう中世に回帰することを望んだ。これに対して一部の聖職者・貴族・平民は、フランスが依然として身分社会的な色彩を残していることを批判し、すべてのメンバーすなわち国民が同一の権利と義務をもつ国家を創造することを主張した。両者の志向性のベクトルは正反対の方向をむいていた。ただし、興味深いことに、両者は国王政府による中央集権化に対する反対という一点で共通していた。そして、この点において、両者は、意図してかせずにか、フランス革命の勃発に貢献することになる。

同様の対立は、現代フランスについても、第二次世界大戦期の対独協力運動とレジスタンス運動、後者の内部におけるドゴール派と共産党アルジェリア独立に対する賛成派と反対派、戦後経済復興における大企業・工業優先路線と中小企業・農業優先路線、労働組合と経営者団体、人工妊娠中絶(IVG)をめぐる賛成派と反対派、さらには近年の移民政策をめぐる諸動向など、さまざまな領域でみてとれる。

現代フランスは、さまざまな領域において、そして、さまざまな争点をめぐって、つねにふかく重層的に分裂してきたのである。 

 

【上部・外部の力による統合】

ただし、フランスの歴史を「分裂」の相だけで捉えるのは、事態の一面のみをみることである。複数の層でふかく分裂し、相対立するアクターは、社会の上部あるいは外部にある力によって統合されるのが常だったからである。

例として、これまたちょっと時間を遡るが、一八四八年のフランスをみてみよう。当時のフランスは、一定額の以上の納税をなす男子のみに選挙権を認める制限選挙制度にもとづく立憲王政(七月王政)という政体をとっていたが、選挙権を得られない中下層の人びとの不満は残り、これまた数年来の天候不順にもとづく不作・食料価格上昇・工業製品需要低下のなかで、革命として爆発した。いわゆる二月革命と、それによる共和政(第二共和政)の成立である。革命を担ったのはおもに中間層と民衆(労働者・下層民など都市民衆、小農・農業労働者など農村部民衆)であるが、前者は、富と能力にもとづく社会的上昇(出世)を信奉し、それゆえ所有権を最重要視し、後者は、社会手上昇を実現することよりも自分や家族の生命と生活を維持することのほうが緊要の課題であり、したがって所有権に対する生存権の優位を主張する以上、革命という一大イベントが終われば両者がただちに対立しはじめるのは、これは当然の理であった。同年末、両者の分裂のなかで大統領選挙が実施されるが、圧倒的な得票で勝利したのは、中間層の代弁者(ウジェーヌ・カヴェニャック)でもなく、民衆の代弁者(フランソワ・ラスパイユ)でもなく、長年の亡命生活から帰国したばかりのルイ・ナポレオンボナパルト、すなわちナポレオンの甥であった。選挙権を得たばかりの多くの有権者は、いわば「外部」から来た彼に対して、分裂していたフランスの「統合」を期待したのである。

同様の事態は、現代フランスもみてとれる。たとえば、フランスがヨーロッパ統合政策の一環として共通市場の設立・深化を推進したことの背景には、この巨大な農工業製品市場を活用することによって、農業利害重視派と工業理解重視派の対立を解消しようとする意図があった。アルジェリア独立戦争が始まり、フランス国内でも独立支持派と反対派がはげしく対立して後者による軍事クーデタが叫ばれるまでに至ったとき、両派がともに「統合」を託して頼ったのは、政界を事実上引退して「外部」にあったシャルル・ドゴールであった。

現代フランスは「分裂」と「統合」が、二つのベクトルとして、場合によっては対立的に、場合によっては補完的に、機能しつつせめぎあい、そのなかで、二つのプロセスとして交互に出現しては消えてゆくような、そういった時空間であった。

 

【分裂と統合の弁証法

ただし、プロセスとしての「分裂」と「統合」が一巡したのちに現出するのは、一巡前に存在した元の二者とは異なったものである。このプロセスは、いわば円環ではなく螺旋を描くものとして理解されなければならない。相対立する二つのものが統一され、そのなかで新しいものが誕生する――ぼくが「分裂」と「統合」の繰返しからなる現代フランス史の特徴を「弁証法」と呼ぶのは、そのためである。

例として、ここでもまた少々時間を遡るが、一八七一年のフランスをみてみよう。前年に始まったドイツ諸邦との戦争は圧倒的なドイツ優位のまま進み、フランスは戦争継続派と停戦派に分裂した。両派の角逐のなかで共和国行政長官の地位についたアドルフ・ティエールは、あらたに成立したドイツ帝国と困難な交渉を続け、また徹底抗戦を叫ぶパリ・コミューンを弾圧しつつ、どうにか戦争を終わらせた。しかし、一部戦争継続派の不満は残り、戦後も対独復讐派・嫌独派として存続した。しかし、この時代、国力からみて、フランスは圧倒的に不利な位置にあり、対独復讐はどうみても不可能であった。それゆえ、どうにかして彼らの不満を吸収しなければならない。この課題に取組んだのが、一八八〇年代から九〇年代にかけて首相その他の要職を歴任するジュール・フェリーである。彼は、世界各地に植民地を獲得することにより、ドイツに対する国民の劣等感を吸収しようとした。彼はチュニジアマダガスカル保護国化し、清仏戦争に勝利してインドシナ半島の植民地化を始めるなど、フランスの植民地帝国化を推進する。対独戦をめぐる「分裂」は、植民地帝国の形成という方針に「弁証法」的に「統合」されたのである。

同様の事態は、現代フランスもみてとれる。たとえば、アルジェリア独立をめぐる「分裂」のなかで「統合」の実現を期待されて再登板したドゴールは、同国の独立を認めたのち、フランスの経済成長を進めるエンジンをヨーロッパ統合の深化に見出した。植民地を維持するか否かをめぐる「分裂」は、ヨーロッパ統合の促進という政策に「弁証法」的に「統合」されたのである。

 

3 相対的後進国

【世界システムにおけるフランスの地位】

 現代フランスを特徴づける「分裂と統合の弁証法」というプロセスは、なぜ、いかに生じたのだろうか。このプロセスが歴史的なものであるからには、この問題に対する解答は、それに先立つフランス史のなかに探られなければならない。

ぼくは、「分裂と統合の弁証法」がフランスで優越することになった原因は、大航海時代の到来から産業革命に至る時期を経て、政治・経済・社会の諸領域でひとつのシステムとして世界が一体化し、いわゆる世界システムが形成されるなかで、フランスが「相対的後進国」という位置を占めることになったことにみてとれると考えている。

 

【相対的後進国

「相対的後進国」とは、フランス史学者・遅塚忠躬が、フランス革命のメカニズムの特徴を説明する際に導入した分析概念である。

彼によれば、フランス革命の最大の特徴は、担い手を異にし、したがっておのおの独自の目的をもつ複数の革命が複合的・重層的に関連するなかで展開する「複合革命」だったこと、とりわけ中間層(ブルジョワジー)を担い手とする「ブルジョワ革命」、都市民衆が担う「民衆革命」・小農が中心的な担い手となる「農民革命」、この二者が、みずからの独自な利害の貫徹をめざして遂行されたことにある。フランス革命の総体が爆発的な速度で展開し、ジクザクな路線を辿り、また、内部でさまざまな対立が生じて(しばしば悲)劇的な様相を呈したのは、そのためである。すなわち、二者が目的をともにし、一種の協働関係に入った場合は、革命は急速な進行をみた。中間層・都市民衆・小農は、当時のフランス国民の大多数を占めていたからである。これに対して両者の目的が相対立する場合、革命は「ブルジョワ革命」と「民衆革命」・「農民革命」のあいだでゆれうごき、両者の力関係に応じて複雑な進路をとらざるをえなくなる。そして、この対立は、目的が正面衝突するものである以上、最終的には、しばしば悲劇的なかたちで決着がつけられる。

それでは、中間層と都市民衆・小農の両者は、革命になにを託していたのだろうか。

大航海時代に始まる世界の一体化と世界システムの形成のプロセスにおいて、一八世紀に至ると、フランスはイギリスと世界の覇権を争う位置につくに至った。しかし、イギリスで産業革命が始まると、イギリスの優位が確定し、フランスは「後進国」の位置に後退した。ただし、イギリスとの距離はさほど大きくなく、したがって同国に追いつくこと(キャッチアップ)は十分に可能であった。その意味でフランスの後進性は「相対的」なものにとどまった。その意味で、一八世紀以降のフランスは「相対的後進国」であった。

相対的後進国フランスにおいて、中間層は、身分制社会を廃し、自由な経済活動や私的な所有権が保障され、富と知によって社会的上昇することが可能な社会を実現することを望んだ。一刻もはやく産業革命を開始・完了し、イギリスにキャッチアップするためである。これに対して都市民衆・小農は、身分制社会を廃し、富や知の大小にかかわらず生存や生活が保障されるような社会を実現することを望んだ。ただし、彼らが主張するような、生存権が(所有権よりも)重視されるような社会では、急速な産業革命は望めないだろう。両者の目的は、身分制社会の廃止で共通し、目指す社会のありかた、とりわけ産業革命に対する態度において対立していたのである。

 

【対立する利害、共通する利害】

フランスは第二帝政期に産業革命を完了するが、イギリスにキャッチアップすることはできなかった。さらに、同じころに重化学工業を中心とする第二次産業革命がドイツや合衆国で始まるが、フランスはこの動向にも乗りおくれた。その意味で、フランスは相対的後進国の位置を脱しえないまま今日に至っているといってよい。

そして、このような性格を維持しているがゆえに、現代フランスは「分裂と統合の弁証法」のプロセスを生きている。すなわち、第二次産業革命からIT革命に至る経済構造の変化を「経済構造の高度化」と呼ぶとすれば、この高度化を支持する人びとと、生活を脅かされるがゆえに高度化に反対する人びとが、分裂する。所有権を中核とする自由権を重視する人々と、生存権を基盤とする社会権を支持する人びとが、分裂する。生存と生活を守ろうとする人びとのなかで、両者を支える存在たる仕事を奪うとして移民の排斥を求める人びとと、移民にも生存権はあると主張する人びとが、分裂する。

しかし、いつまでも社会や国民が分裂していては、イギリス・ドイツ・合衆国など先進国にキャッチアップすることはできない。そこで、上部あるいは外部に対して「統合」を実現しうる存在が求められることになる。キャッチアップという点で、対立する二者の利害が共通する。統合ヨーロッパしかり、ドゴールしかり、あるいは最近のエマニュエル・マクロンしかりである。

しかし、彼らに頼るだけでは、キャッチアップを完了することは難しい。そこから、彼らに対する人びとの不満が、あらたに生まれる。とるべき道をめぐり、あらたな分裂が生じる。あらたな対立軸にもとづいて。

近現代フランスの歴史的なダイナミズムは、このように整理できる。そして、その延長線上に、今日のフランスがある。