謹賀新年、または英雄待望論の胎動。

謹賀新年。

2018年に入って元旦のみ布団と酒の日々をすごし、昨日から出勤して『フランス現代史』(仮題)の構成(つまりキーワード入り目次)作成を続けている。長いあいだ19世紀つまり近代を専門にしてきたせいか、第二次世界大戦後については「土地勘」がなく、難儀な日々をすごしている。はたして約束どおりに構成を提出できるのか、神のみぞ知る状態に入りつつある今日この頃、皆さまにはいかがおすごしでしょうか。

 

 

さて、新年早々の弁解は措いておき、本題の英雄待望論である。あるいは天才待望論といってもよいかもしれない。

ぼくは、長いあいだ、小説やマンガを読まずに過ごしてきた。どちらも、どうにも苦手だったのだ。ノンフィクション・ルポルタージュや、小説のなかでも推理小説は例外的に、それなりに好きで、読んでいるが、いわゆる「小説」はダメだった。マンガも「うーむ」だった。なぜダメかはわからないが、食べ物の好き嫌いと同じで、理屈はあまりないんだろう。

と・こ・ろ・が。

去年、偶然、一冊の小説と一シリーズのマンガを手にとり、はまってしまった。恩田陸蜜蜂と遠雷』(幻冬舎、2017)そして柳本光晴『響』(2015-刊行中、小学館)である。

蜜蜂と遠雷』は、どーして思い立ったのかいまだに「?」だが、本屋大賞2017受賞作を片っ端から読んでみようと思い、手にとったのがきっかけだった。『三日月』とか『暗幕のゲルニカ』とか、他の授賞作品とまとめて読んだが、何度も読みかえすことになったのは『蜜蜂と遠雷』だけである。内容は要するに天才モノだが、音楽を文章で描写しようとする作者の意気込みに、まず頭を垂れざるをえない。しかも、成功してるし。おまけに、何度読んでも泣けてくるのは、ひとりぼくだけだろうか(付加疑問文)。

『響』は、ウェブ雑誌かなにかで紹介されていて、これまたいかなるわけか「?」のままに手にとったのが運のつき。つい先日刊行された第8巻は、とうとう予約までして入手するハメとなった。内容はこれまた天才モノだが、主人公の天才振りがぶっとんでいて、読者の予想の斜め上を行くストーリー展開に、これまた頭を垂れざるをえない。

かくして『蜜蜂と遠雷』も『響』も、ともに、いまや布団の友である。

 

 

し・か・し。

これで終わったのでは、オチなしで、ワタクシの格好が付かない。

 

 

よくみてみるがよい。両作品はともに天才モノであることがわかるであらう。前者は3人の天才ピアニストが織り成すビルドゥングス・ロマンであり、後者は一人の天才小説家(高校生)が右から左までバッタバッタとなぎ倒してわが道を行く一代記(未完なので、たぶん)である。

それでは、なぜぼくは天才モノに惹かれるのだろうか。

ちなみに『蜜蜂と遠雷』は2017年ベストセラー第3位、『響』は映画化が決定したそうなので、惹かれているのはぼくだけではないだろう。これはつまり、ひとびとが天才モノに飢えているということである(論理の飛躍あり)。両者はともに、天才待望論をみたす存在として、人口に膾炙しているわけだ。さらにいえば、天才は一種の英雄にほかならないから、これはつまり、今日の日本では英雄待望論が胎動しているということを意味している(さらに論理の飛躍あり)。

それでは、それでは、なぜ英雄待望論が胎動しているのだろうか。

英雄が待望されるのは、社会が閉塞感にみちあふれているときと相場が決まっている。そういえば、かつて、まさに「ヒーローを待っていても世界は変わらない」というタイトルを持ち、英雄待望論の対極に位置する好著(湯浅誠朝日新聞出版、2012)があった。同書が刊行された2012年といえば、東日本大震災からの復興のありかたその他、山なす政治的アジェンダをめぐってひとびとが喧々諤々あーだこーだと論を闘わせていた、たしか民主党政権の時代ではなかったか。それに比して、いまはどうか。答えは明らかだろう。

かくして、わが考察は「日本現代は閉塞している」という結論に達したわけである。ホントかよ。

 

 

さて、論理が飛躍しまくって収拾がつかなくなってきたので、そろそろ「日本現代」から「フランス現代」に戻ることにしようか。

 

 

今年も、よろしく。