西研、スゴシ。

先月末のことになるが、すぐれた哲学者である西研さんのセミナーを聴講してきた。某企業の幹部候補生研修の一環にもぐりこんだのである。ぼくが西さんを「すぐれた哲学者」だと思うのは、既存の哲学者を研究する「哲学学」ではなく、人間が問題とするべき「問い」にたちむかうためのツールや理論を作るという「哲学」にみずからとりくんでいるからだ。

セミナーの前半は、西さんなりの哲学史講義。ここからして、一般の「哲学学者」が提示するのとはまったく異なる哲学の歴史が展開される。なんたって、出てくる哲学者が、ソクラテスプラトンフッサール、以上(キッパリ)。ヒュームもデカルトもカントもヘーゲルも出てこないという、語の真の意味で「ラディカル」な哲学史である。こんな選択の背景には、哲学の第一課題は「異質な他者同士が、異質性を損なうことなく対話するためのプラットフォームを作ること」であるという西さんの哲学観がある。要するに、ほかのことや、ほかのことを問題にした哲学者は、どうでもよいわけだ。全然ニュートラルじゃなくて、じつに潔し。ウーム、の一言である。

後半は、セミナー参加者に「異質な他者同士が、異質性を損なうことなく対話するためのプラットフォームを作ること」を実体験してもらうためのワークショップ。今回のお題は「幸福とはなにか」だったが、「なにか」の対象は、「誠実」とか「なつかしさ」とか、なんでもよいらしい。参加者の平均年齢は40台半ばといったところだったが、彼ら・彼女たちがワイワイガヤガヤと議論し、まとめ、プレゼンし、それに対して西さんがコメントしてゆく。そのコメントの内容が「異質な他者同士が、異質性を損なうことなく対話するためのプラットフォームを作ること」という西さんにとっての哲学の課題とぴったりフィットしていて、単なるファシリテーションにとどまらないところに、ぼくはひたすらに感服していたのであった。

ちなみに、休憩時間にはハイデガーの功罪や、臨床哲学の「その後」に関する評価など、貴重な話を聞くことができた。

9時から17時までの長丁場だったが、終わったあと、ものを考える「かまえ」がひとまわり大きくなった気がした。これがリベラアーツの力である。